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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

隅田金属ぼるじひ社(コミケ:情報評論系/ミリタリ関係)の紹介用

プロフィール

文谷数重

Author:文谷数重
 零細サークルの隅田金属です。メカミリっぽいけど、メカミリではない、でもまあミリタリー風味といったところでしょうか。
 ちなみに、コミケでは「情報評論系」です

連絡先:q_montagne@pop02.odn.ne.jp

→ サークルMS「隅田金属」
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2013.10
30
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12:00
Category : 映画
 岩波ホールでハンナ・アーレントが上映中だが、矢鱈と人が多い。いつもなら並ぶこともないのだが、今回は入場待ちができている。28日月曜日、夜回(午後7時)で見たのだが、開場待ちが7階まで伸びている。「火曜日夜回に行こうとしたが、満員で入れない」という話があった。



 普段とは客層が違う。後ろに映画学校かなにかの学生さん並んでいる。普段は、ヴァイパー師匠が「死に損ない」というようなババァがメインなので、これは新鮮。

 ただねえ、まあ盛り上がる話ではない。最近の映画なら、カミュの自叙伝を映画化した「最初の人間」に近い感じ。これも岩波ホールだが、欧州モノでよくある中途キツくなる感じの映画だった。

 要は、ハンナがアイヒマン裁判傍聴記で一悶着といったもの。で「あいつは所詮小物、もちろん絞首刑は妥当だけど」や「ユダヤ人指導者も協力者じゃね」と評して、ユダヤ人社会やイスラエルが沸騰し、ハンナにキツく当たるといった内容。割と平板な話なので、どっちかというと、中途、話し相手によって英語とドイツ語が入れ替わるのを聞いている感じになった。

 そういう映画ではないことは承知して言うが。クライマックスでオリジナル要素入れないと持たない感じがする。亭主の病気を厳しくするとか、ハイデガーとの浮気の話を大げさにするとか、大学なり自宅を焼き討ちされるような絵を入れないと、2時間は持たない。

 どちらかというと、次回予告編の『少女は自転車に乗って』に相当やられましたね。あれは予告編だけでも、相当のもんだとわかりますよ。アフガニスタンで小学校に通いたいという女の子映画『子供の情景』(己、見終わったあとに500円寄付したよ)なみでしょう。



 価値観外交だとか積極的自由といっているが、実はヨリ酷いサウジ体制に何も言わず、むしろスリ寄っているのは言行不一致じゃないのかねと、予告編見ただけで思ったよ。もちろん、原油は大事なので、サウジ現体制に目をつぶって仲良くするのは仕方もない話ではある。ただ、サウジ現体制のヤバさを知った上で表面づらだけで付き合うのと、親米陣営だから仲間だろうと思考停止して本気で友好関係を考える間には、差はある。

 何も考えずに、サウジ現体制にズブズブになるのは、道義的というか気分的に良くないし、将来ズッコケたときのことを考えても避けた方がいいんじゃないのかね。
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2013.08
25
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12:00
Category : 映画
 岩波ホールで『楽園からの旅人』が上映されている。廃止された教会に、アフリカからの不法入国者が逃げこんでくる。教会の司祭は彼らを保護するという筋立てである。

 テーマと舞台には文句のつけようが無い。だからか、近藤孝さんの映画評でもベタ褒めされている。



 しかし、作劇が全く残念に過ぎた。なんといっても、登場人物が全く交歓しない。映画でも小説でもアニメでも、大抵は物語の中で人間関係が深化し、あるいは変化する。だが、『楽園からの旅人』にはそれがない。多少でもあるのは、司祭と寺男(あるいは信徒代表)の仲が悪くなること、医者が司祭を理解して、言うことを黙って聞くようになる程度位である。肝心の難民と司祭は全く交わらない。

 そして、司祭と難民が交歓しない以上、難民にも感情移入ができない。一応、腹の大きなおっ母さんが子供を産んだり、別の家族でお父つぁんが病気から恢復したりする。だが、その先で司祭は子供と母親や、家族に「良かったね」と言う程度の交流もしない。観客は「まあイイことだよね」程度で終わってしまう。同情や難民への仲間意識が生まれない。

 だから、物語上、難民はそこにあるだけのオブジェにとどまってしまった。もともと難民の描写はおざなりで済まされている。しかし、十把一絡げのグループではなく、3グループ程度に分かれいるので余計に訳がわからない。突然、ダイナマイト(C4とかじゃない筒状の爆薬)が出てくるカットがあったり、それをアンちゃんが腹に巻くカットがあるが、何を憎んでいるのか全然わからない。予告編やストーリを読んで、初めて原理主義者グループも混じっていることが分かる始末である。

 このため、クライマックスで難民が受ける扱いにも、観客は悲嘆できない。最後に、難民が○○されたことへの示唆があるがだが、その時にも「ヒドい」とか「やめて」といった感情が湧かない。

 映画としても退屈になってしまう。8月21日夜の回に行ったのだが、始まってから10分も経つと近くのおっちゃんがイキナリ寝はじめていた。イビキも最後までしていたような映画になってしまった。

 退屈な点は、映画評でも窺える。近藤さんの「不法入国者たちの顔の何と美しいことか。虐げられてきた彼らの顔に、恩ちょうのような光を当てたオルミの祈りの深さに、感銘を受けずにはいられまい。」とある。言外に「面白い映画だと思うなよ」というメッセージがあるようにも見える。

 この映画、普通に、司祭と難民を交歓させればよかったのではないのか。司祭に「慈悲を与えることが困難である時こそ慈悲を与えるべき」と言わせたのは立派だけど、その上で援助と交歓をさせれば、結構いい映画になったのではないか。

 教会を失って、抑鬱状態になった司祭をハッスルさせてもよかったのではないか。死に損ないの年齢の司祭が、徐々に修道院時代の兄弟子に戻る。「ここに居させてやるから、できることやれ、働け」とかね。「洗いざらしがやるからオムツ位縫え」とか、「若いのに昼間から寝てんじゃない」とか「掃除しろ掃除」とかでもいい。子供にアラビア語の読み書き教えてやれ、必要なイタリア語は俺が教えてやるみたいな話にすれば、相当に変わったのではないのかね。

 エルマンノ・オルミ監督、現代の黙示録を書こうとして、黙示録を書いたというなら、どうしょうもない話だけれども。やりたいことと、うけることを両立させることも、巨匠であるならできたのではないか。
2013.08
11
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12:00
Category : 映画
 国立国会で『Kihachiフォービートのアルチザン : 岡本喜八全作品集』を眺めて気づいたこと。
 この本、喜八のそれぞれの映画について、当時の映画評がついている。まあ毀誉褒貶は当然あるのだけれども、産経の評が抜きん出て的外れに見える。

 その産経映画評について、当日の産経新聞(1965.9.16 夕刊4面)『スクリーン』欄を複写してきたよ。

 まず、話の取っ掛かりからしてアレ。

「主人公はバカな上官をぶんなぐって前線に追われた武勲の曹長である。彼は皮肉にも自分が戦線に追い出した十数名の少年軍楽兵と行動」(産経)
→ これは逆の話。保護したかった「少年兵を前線に出す」という話で小杉曹長(三船敏郎)は上官を殴打して、少年兵の後を追っている。

「よりによって転属先が銃殺される弟の部隊という偶然さも不自然」(産経)
→ これは理屈。そもそも映画の筋に、現実社会での不自然って言ってもしょうがない。また、映画の中では、この点でリアリティに不自然を感じることもない。無理に批判してもしょうがない。

「見習士官は部下の八路軍逃亡を何故か報告せず…本人の気持ちも不可解」(産経)
も、劇中で逃亡した部下を庇ったためと説明されている

「少年兵全員に女の味を教えた慰安婦に、曹長が自分の金鵄(きんし)勲章を与えるところなどふざけた皮肉味もある。」(産経)
→ このシーンを「皮肉」ととらえるのは難しいのではないか。だって、いつも一緒だった女に生前の形見分けをしている、ちょっといい話でしょう。多分、産経的には「金鵄勲章なんて重要なものを慰安婦に渡すのか、ありえん」という怒りなのではないかね。だけれども、小杉曹長というキャラクターからすれば、金鵄勲章を、慰安婦のお春さんに渡すしかない。
    
「部隊が決死隊に終戦をしらせず置き去りにするデタラメさ』(産経)
→ ヤキバ攻略隊とは通信途絶の状況だから仕方ないのではないかね。それに、佐久間大尉は「非合理的だけれども、俺が」って感じで伝えに行っている。まずは事実誤認でしょう。

 でね、一番気になったのが、産経の映画評のこの部分。

「喜劇、悲劇、風刺劇、冒険活劇、反戦劇…なんともつかない。背景とオープンセットに感心するだけ」(産経)
→ これだと、カテゴリーに合致した劇がいい劇だとでもいいたいと主張していることにならないのかねえ

 そもそも、最初に
「三船に俳優としての偉大さを発揮させるのは黒澤明(監督)以外にありえない」(産経)
という結論ありきだからね。黒澤と言っておけば映画評としては安パイみたいな、単に権威があるものに乗っかっているだけだろうという感じがプンプンするのですよ。

 ほかの映画評、朝日読売毎日やキネ旬なんかの評にも、『血と砂』への批判はあるよ。タイピシャルな「戦争賛美」とか「冒険劇のように」なんて評もある。でもキチンと批評点は示している。また、産経以外は映画としての『血と砂』が面白いことは肯定している。

 対して産経新聞の評は、自分たちの軍隊に対する思い入れ「尊敬すべき日本軍隊」と違うものに拒否反応を示しているだけにしか見えない。日本軍隊の名誉を守るために批判点を探しているようにしか見えないわけです。

 かねがね、甘い新聞とは思っていたけれども、50年前からそうだったわけだ。まあ、「自分の職場に好意的だから産経新聞をとろう」なんて職業人のお里も知れているけどね。
2013.07
13
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12:00
Category : 映画
 試写会に行って来ました。いや、映画館用の予告編で少しだけ出てくる、試作烈風での堀越二郎の空戦体験を楽しみにしていたのですけど、それ以上の収穫があってホクホクしました。

 烈風での空戦もすごかったのですよ。再現しないトラブルの繰り返しに、同乗で確認しようとした堀越技師が空戦に巻き込まれる。空戦中にパイロットの赤松さんに「乗り心地はどうだ」と言われるが、「最悪だな」としか答えられない。「それならもっといい飛行機を作れ」「わかった」という話のあとの、被弾からのシーンは、確かに物語としてのカタルシスでしょう。

 烈風の胴体に機銃弾が貫通すると、暗い機体後部に光が差し込んでくる。その孔から外を観察すると、P-51のような機体に取り囲まれていることがわかります。赤松さんは「本土上空で陸軍機が来るようになったらオシマイだろ」といいながら、最低限の回避を繰り返し、あとはひたすら高度をとって離脱を図ろうとするが、衆寡は敵しない。やはり少数の命中弾は避けられない。

 「奴らは15分、あるいは10分で帰っていく、それまで辛抱してよ」と後ろに怒鳴るのだが、もともと寡黙な堀越さんは何も答えない。ただ、弱い声で左下後方、方位変わらず近づいてくると、死角の方向を観察した声だけを挙げてくる

 そのうち、敵集団が突然混乱した動きをするが、すぐに三々五々に帰っていく。ヤレヤレとした時に、後部から「真後ろ」、「マスタング」「突っ込んでくる」という声が聞こえる。赤松さんが、ああっと声を挙げると、ムスタングは何もせずに真横に並んで飛んでいる。その機体には日の丸がついている。陸軍の捕獲機が援護してくれたのだが、接近したパイロットが身振り手振りで何かを伝えようとしている。キャノピーを上げて大声で怒鳴りあうと、機体後部がエライことになっているのがうすうすわかる。

 そういえば操縦感覚がオカシイ、今までで一度もない感覚だと気づく。「どうも操縦系がやられたみたいですが、堀越さん、後ろはどうですか、妙にフワフワするんですよね」といっても何も帰ってこない。マスタングの援護と指示により、とりあえず福生に降りると、救急車が待機している。念のいったことだと着陸すると、地上員は赤松さんを無視して、いきなり胴体の横腹に向かっていく、胴体を切り裂いて出てきた堀越さんは…という話は、やはりクライマックスなんでしょう。戦後、堀越さんは雑誌媒体には結構寄稿するのですが、テレビに出てこないあたりと関係する実話なのでしょう。

 しかし、それよりも驚いたのが、9試艦戦の事故を入念に追い続けた中盤描写です。9試艦戦開発の黒歴史、堀越さんがアレに変わってしまう事件で、あまり触れないようにしていたエピソード。音速突破の物語を、潤色も込めてですが延々とやり続けるのは、宮崎作品ならではの展開でしょう。

 プロペラ機で、音速突破をしようという話です。戦前、国威発揚を兼ねて何回も行われた実験に焦点を当てた作品は、初めてのものでしょう。空気の薄い高高度に上がり、急降下のあと、ついに90度で降下する。重力加速度を利用して音速を超えようという実験です。400kt500ktまでは、空気も薄ければ問題もないのですが、全金属製の9試艦戦でも、低空の濃密な大気との衝突には耐えられない。異常振動により、機体は分解してしまいパイロットは大怪我をうする。振動対策をしてもダメ、多少丈夫につくってもダメで、パイロットの傷はどんどん厳しくなる。最後に、固定脚の外側で主翼を切断して、その外に使い捨ての仮設翼をつけて降下する実験をやる…その結末はネタバレで書くべきではないのですが、ドーン(アレも口で作った効果音さそうです)と言う音が流れるところは、まあリスペクトなんでしょう。

 実際に、96艦戦は固定脚の内側だけ残れば飛行できるという説もあります。仮に体当りして左右いずれか、場合によれば両翼端を失っても飛行できる等と言われた話もあります。実際はそんなことあるわけもないのですけどね。だいたい空中戦で体当たりとか、しかもバランスのわるい片翼帰還なんかできるわけない。そりゃ、金鵄勲章物だろうと思うのですが、それも宮崎式のロマンなんでしょう。その話を戦闘での話にせず、音速に挑む樫村パイロットの執念の話に仕上げているのが、宮崎流です。

 ただ、マニアとしては、黒江さんの出番にニヤリとしてしまうのは業でしょう。実際に、音速突破実験に立ち会った陸軍の黒江さんと、マスタングのパイロットの黒江さんと、戦後日本人で初めて音速を突破した空自の黒江さんですが、キチンと同一人物としてわかるように描いてあります。そのあたりは、非常によろしいものですなと言うのが、最大の感想なのです。よくみると、黒江さんの私服のネクタイに、垂直降下で音速を超えたセイバー・パイロットに送られる「セイバー・クラブ」のネクタイピンがついているのですが、そこはご愛嬌でしょう。まあ、このあたりはそれは本筋から離れた部分なので、ネタバレもここらでオシマイということで。
2013.04
12
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13:00
Category : 映画
 岩波ホールは埋もれた作品を世に送り出す映画館ですが、掛かる映画のたいていには、やはり世に埋もれる理由はあるわけです。しかし、1年に1-2回は鑑賞に耐える映画が掛かる。メジャーなところだと『山の郵便配達』、マイナーだと『氷海の伝説』『子供の情景』『イラン式料理本』なんかがそうでしょう。

 いま掛かっている『海と大陸』は、その当たり映画でしょう。イタリアのほぼ最南端、チェニスやマルタよりも南にある離島、リノーサ島を舞台とした物語です。大概は公式サイトと、相当シーンが前後していますが、予告編を見ればいいでしょう。

 
 映画そのものと別筋で興味を惹かれるのは、船舶を見つけると海に飛び込み、船に寄ってくる不法入国者の姿です。映画から離れた話ですが、実際にやられるとコレほど厄介な方法もありません。日本の近くでアレをやられると困ることこのうえないでしょう。

 落水者や難船者、漂流者を助けるのは「船員の常務」です。船員だけではなく、船舶運行に従事する漁民や、自前のプレジャーボートの持ち主であっても、落水者等を救助するのは義務であり、拒否することはできません。

 しかし、どこの国も、ボートピープルはできるだけ自船に引き揚げないことが原則になっています。船に揚げるとそれなりの責任が生じます。だから、護衛艦などでも、なるべく関わりあいにならない、絶対にフネに揚げないようにという指示が出ているそうです。

 ただし、落水した場合には助けないわけには行かないわけです。その点で厄介であり、不法入国をする側から見れば、上手いところを突いた手段になります。

 作品中では、さらに身重のおっ母さんも飛びこみ、救助されたところで陣痛が始まります。なかなかできる方法ではありませんが、これも厄介、あるいは巧妙な手段となるでしょう。そこで産まれてしまえば、その引き上げた船舶の旗国が出生地になるわけです。出生地主義を採る国であれば、子供はその国の国籍を手にできるわけです。中国人がアメリカや香港地区で出産しようとするアレと同じ仕組です。

 とりあえず、日本周辺では、東アジアでは今のところ、ボートピープルが発生する状況にはありません。しかし、かつては東アジアであったベトナム難民(国籍という概念がアレでしたが)も日本近海まで漂流して来たこともあるわけです。

 ただ、仮に北朝鮮が崩壊でもした時には、季節や状況によるでしょうが、難民や不法入国者が大量に漂着するでしょう。

 もちろん、無視はできません。まず無視をすることは許されません。船員も漁民も、保安庁や自衛隊の乗員も、船員の常務から逃れることはできません。仮に国が制度としてそれを命じても、人道上の問題として後世まで指弾されるでしょう。

 航海に耐えない船舶で漂流しているのであれば、まだ援助するだけで済みます。水と食料と医薬品を渡し、曳航して元の海岸に戻してやればよいわけです。

 しかし、映画のような行動が行われると相当に厄介でしょう。目の前で海に飛び込まれれば、救助せざるを得ないわけです。また、艦船上で出産されるような事例が出てくると、日本はその難民/不法入国者をそれなりのケアをしないといけません。その後の面倒も見ないといけないわけです。

 仮に北朝鮮が無秩序に崩壊して、一挙に来られた上、飛び込みや出産という方法が共有されると面倒この上ないでしょう。ベトナム難民の時でもあれほど大変だったわけです。これが、北朝鮮が制御不能の崩壊を起こした場合には、手に負えない事態が発生することになります。

 そういう面倒事を避けるには、北朝鮮を制御できない崩壊に追い込まないように注意するしかありません。保守が主張する強硬姿勢だけでは駄目で、不本意でも経済援助その他の飴も見せて、鞭と飴の硬軟両面で説得し、制御可能な範囲に収めないといけないのでしょうね。
2012.12
14
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19:54
Category : 映画
 コミケの作業で、BDとかDVDかけっぱなしにしていて、『肉弾』見ていたのだけれども。シガラミで自爆テロしなければならないヤクザの映画とかどうかね。「昭和44年、九州のヤクザの平均寿命は88歳だった。平成24年には44歳、その差44歳…昭和44年生まれのあいつも44歳」みたいな映画作らないかね。

 自爆テロが当たり前になった北九州の町で、組長とのシガラミでテロに志願した「あいつ」の物語なんだが、最初の決別の宴の段階で、組長の若い女房があくびしているみたいな映画。

 訓練キャンプで「この空気に耐えられない」と若いヤクザが「あいつ」から拳銃を奪って頭に当てて引き金引くけど不発。返してくれよと手に戻して、「爺さんが、朝鮮戦争の時に誤魔化したリボルバーだからな」みたいな言い方で、もう一度引き金を引くとズドン。若いヤクザが腰抜かすシーンとか。
 業務用のバンに、灯油缶とANFOを積めるだけ積んで街を流して、敵対幹部の車の脇で発火させようとするんだけど、4ナンバーの悲しさで、必死に走っていて追いつけないとか。首尾よく追いついたら出迎えの空車だとか、後少しのところで信号が赤に代わって、思わず止まってしまって、赤面するところとか。追いついたと思って点火準備をしたら、小倉駅前で通学の小学生を見てしまい、どうしても発火できないとかねえ。

 埠頭そばの埋立地での密航立会を嗅ぎつけて、首尾よく仇の車が隣に停まったその瞬間、手打ちのを知らせる電話が入ってくる。緊張の糸が切れて、リクライニングして、オピウムか何かを摂取して寝てしまうのだけれども、サイドブレーキが入っていなくて、水切り勾配のせいで、車が海の方にズルズル…
 どっちかというと、中東のゲリラ向けの話なのかね。これなら、アラブ・イスラム・西欧のどちら様にも角が立たない内容になると思うんだけどね。



 ま、冬コミまで当分はこんな内容ですね。なんせ12月の分はだいたい書きためたヤツです、ハイ。
2012.08
03
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13:00
Category : 映画
 昔、東京12チャンネルで平日午後によく放送していた映画だが、完全版をやるらしいですね。

 昭和20年8月、ソ満国境に取り残された重機関銃部隊の話。饅頭型のトーチカ群に立て篭もる日本軍が、互いに鏡をチカチカやって健在を伝え合うところから始まる話だと言えば思い出す人もいると思う。重機に取り付けるマガジンの点検をしながら「保弾板、曲がりあらざるや」とか「保弾板、弾爪ゆるみあらざるや」というアレ。

 注目すべきは、8月8日に防衛召集された少年兵が、ふ号兵器で脱出するところからですね。今までのTV短縮版だと報告のための脱出命令としか説明されなかった部分が、今度の完全版では、実際は子供たちだけでもどうにか、と考えた隊本部が体裁を整える部分が放映されるそうです。そのシーンの復活で「無茶苦茶な命令」の意味が変わってみえることでしょう。

 あとはご存知のとおりです。命令は8月16日の闇夜に脱出なのだが、水素不足と補充のための電気分解で出発が黎明になってしまう。対空射撃で割れるふ号兵器。ソ連機パイロットが興安嶺山脈を指さすシーンからは何回見ても眼を離せないものでした。

 でもねえ、この歳になると、残置されたふ号兵器の開発者、帝大卒の軍属が「おれはいつか風船でハワイまで行く、いや、アメリカまで行って見せる!!」 といったところや「爆弾や生物兵器を積むために風船を作ったのではない」とかいうシーンにやるせなさを感じてしまうものです。

 エンディングも前よりも後のほうが身に響く年になりましたよ。「興安嶺の魔女は、自分に戦いを挑み敗れていった男たちを思い出して、今でも笑い続けているという…」よりも、そのあとの「戦後、銚子沖を飛んでいく一つの風船をみたというはなしがある。おじさんが、アメリカまで到達できたかどうかはだれも知らない…」 の方に悲しさを悲しさを感じてしまいますね。
2012.07
13
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13:00
Category : 映画
アマゾンでキャプテン・アメリカのポスターを見っけて不図ね
まず、キャプテン・アメリカはベトナムに行っていないらしい

でもねえ、70年代の映画なら
・ 南ベトナムの腐敗
・ 米介入の理由付けができない
・ 巻き添えになる市民
で悩まないといけないだろう

まあ、ランソン捕虜収容所強襲に参加するけど
ヘリが故障、オートローテーションで小学校かどこかに着陸
寄せてくるベトナム兵を張っ倒し、文字通り屍山血河を築き
VIPを保護しているらしい敵を踏み潰そうとすると

…アンクル・ホーがいるんだろうな
で、ホーのオーラに魅入られて動けなくなるキャプテン・アメリカ
ホーおじさんを守れ、と農具で襲いかかる女子供を見て戦意を喪う

乗員他を収容して、後方に帰ると、ソンミ村の事件を知る
これで積極的に戦争しないだろうよ。多分ここで酒とクスリに溺れる

戦場では、敵味方の負傷者を助けるが、誰も倒そうとしない
休みや後方では、市中の病人や傷者をいたわり、お寺お廟を直したりするのだろう

で、BBQを見かけるんじゃないの
私淑していた高僧で、悩みを打ち明け、カウンセリング風を施してくれた恩義もある、
「好きにやらせろ」とニヤニヤする南ベトナム官憲を張り倒し
坊主のところにやめてくれと懇願する

でも、「私はベトナム人を救おうとしている、邪魔をするな」と大喝され
「この年寄り一人を救うよりも、百万のベトナム人を、数万の米兵を救え」
とかいわれんじゃないかね

営倉から出されて、南ベトナムからの抗議で本国に送還されるときには、
酒もクスリも絶っている

本国に帰った時には、ワシントンとかニューヨークで平和運動の先頭に立っている…じゃないかな。ホーおじさんやこの平和行進は、フォレストガンプ/日清カップヌードル方式で、記録画像と合成



今様なら、「山の郵便配達」方式かね
奥地の作戦で少年兵を捕虜にとる、後送中にトラブルで二人きりで後方まで、
10日間位一緒に過ごす、その間に、互いを理解して…かね

最後に、少年兵が南ベトナムに引き渡されることを恐れて、逃がしてやる
この時に、何か象徴的な小道具を渡す、トランペットとか、グローブとかね

でも、すぐに銃声がして、米軍なり南ベトナム軍に少年兵が、なるべく残酷な方法で殺される。
そして、せっかく渡した小道具が泥の中に打ち捨てられ、踏みにじられる

あとはわからない。そのまま終わりでもいいし
EDで、キャプテンアメリカが大暴れして、本国送還、平和運動の先頭でもいいんじゃないのかな

まあ、なんでこんな文章を書くのかわからないけどね



2012年01月01日 MIXI日記より
2012.04
28
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13:00
Category : 映画
 岩波ホールで『オレンジと太陽』を観てきました。

 白豪主義を維持するため、英国は本土から民族的に正しい孤児を輸出した。そういった内容の映画でした。岩波ホールで上映されている『オレンジと太陽』です。映画の筋書きは、http://oranges-movie.com/aboutmovie.htmlが大概になります。映画も出来はよろしくオススメですが、映画を見た後で、主人公であるハンフリーズによる『からのゆりかご』※を読むとよろしいでしょう。



 映画『オレンジと太陽』は、かつて児童移民としてオーストラリアに送られた孤児たちに光をあてる作品です。成長した子供たちは、自分たちが何者であるのか、ルーツを、アイデンティティを渇望します。棄民として輸出されたかつての孤児を救うため、彼らが何者であるのかを明らかにするため、80年代から戦ったハンフリーズを描いた映画です。

 オーストラリアへの児童移民は、残酷なものでした。児童移民は1970年まで続きますが、その待遇は1870年代かそれ以前の水準です。孤児の環境が過酷であった点は、映画だけでも充分に表現されています。しかし、映画ですので作劇術で刈り込まれた部分もあります。児童移民に与えられた残酷な取扱は『からのゆりかご』でより具体的に記述しています。

 まず本人意思も明確ではない児童を、親の承諾なしで地球の裏側、オーストラリアに移民として送り込むのです。その後に、子供たちは親との連絡はまったくとることができない。生きているにもかかわらず、親は死んだと説明される。場合によれば、名前や出生日といったアイデンティティも操作され、外地に輸出されてしまいます。

 当然ですが、オーストラリアには親類縁者いません。子供たちは宗教施設に放り込まれます。送り出す側も、引き取る側も主流は宗教団体です。カソリックが児童移民の発端ですが、英国国教会も、スコットランド国教会も、長老派協会も後に参加しています。

 『からのゆりかご』は、過酷な取扱を直接的に記述しています。

 子供たちはオーストラリアで劣悪な環境に置かれる。孤児院には、子供を保護する親の愛情はありません。カソリック系孤児院では、子供は劣悪な環境に置かれます。オーストラリア児童福祉局によるレポートでは「ベッドの下には多量の小水が溜ったままである。拭きとった形跡もなく、乾いて塩の結晶ができている。小水の塩分でベッドのスプリングは錆び、色がにじみ出ている(大意)」(304p)と述べられています。また、扱いも過酷です。アデレイドにあったグッドウッド孤児院では、靴下に穴が開いている、祈祷書の言葉を間違えた、服にシミをつけたといった理由で少女が全裸にされ、尼僧に鞭で叩かれた例(119p)も示されます。

 15歳になって孤児院を出ても、過酷な取扱は続きます。農園に引き渡されるのですが、そこでの扱いは、農奴や召使の扱いです。奴隷的な扱いであり、休みは6週間に一回。女子の例では、農園の長男による強姦未遂が何回も繰り返され、誰も助けてくれないといったエピソード(119p)が語られているのです。

 児童移民の目的も不純です。オーストラリア人は、アジア人に圧力を感じていた。アジア人種に対抗するためには白人移民が必要である。それも、価値観が固まっておらず、オーストラリアでの過酷な農場労働に疑問を抱かない子供が最適であると判断されました。子供は、宗教的に白紙であるため、本国では権威が低下した教会価値観を刷り込み易いといった点も、提案した宗教団体にとって有利な点でした。

 『からのゆりかご』では、児童移民を提唱した宗教指導者、特にカソリックの発言も提示されています。修道士は「『少年たちには魂の底まで宗教を教え込みます』」(269p)と発言しています。大司教は「『もしこの[人口]不足を我々と同じ人種で補うことができなければ、我々は近隣地域に住む多産のアジア諸種族の脅威に身をさらすままになる』」(269p)と主張しています。戦争直後の1945年にも、カソリック系新聞は「過去六十年にわたる避妊によって失われた6個師団分の潜在的[人口減により][中略]日本との戦争はよく考えても延期されているにすぎない。北からアジアが迫ってきている」(269p)と述べています。

 オーストラリアへの児童移民、孤児輸出がもっとも過酷な結果を生み出しました。同時期、ローデシアにも児童移民は行われましたが、子供の意志、親権者の承諾、親との連絡は確実であり、特に問題があるものではありません。到着後の環境も人道的であり、学校に通い、高級な教育を受け、後には社会の中心に出る機会が与えられています。対してオーストラリア向けが悲惨な結果となった理由は、やはり農奴(そういって差し支えないでしょう)として孤児を輸出する発想にありました。

 『からのゆりかご』がオーストラリアへの児童移民に焦点を当てた理由は、非人道性が際立っていたためです。『からのゆりかご』では、ほかにもカナダ、ローデシアへの児童移民もルポされています。しかし、問題はオーストラリアへの児童移民に絞られています。その理由は、オーストラリア向けが際立って悲惨であったためです。

 このため、映画化もオーストラリア向け児童移民に絞られています。題名も『からのゆりかご』ではなく、『オレンジと太陽』※※※ とオーストラリアを指すフレーズに変えられています。

 映画『オレンジと太陽』は、ハンフリーズを主人公にしています。原作は『からのゆりかご』であり、テーマはオーストラリアへの児童移民であることには変わりありません。しかし、ルポルタージュではなく、ハンフリーズの物語として作り変えています。ハンフリーズと夫、その子供達を主軸に再構成されました。かつての孤児たちと交歓し、英豪両政府と戦う姿は原作のままですが、そこに家族とハンフリーズの関係が持ち込まれております。ハンフリーズは児童移民問題に献身的に取り組みますが、同時に彼女が家族から離れた結果、生まれる苦しみとの葛藤も描いています。

 また『からのゆりかご』で項目立てされたテーマも大きく刈り込まれています。まず、カナダとローデシアへの児童移民は映画では取り上げられません。オーストラリアでの虐待も、特に性的虐待に代表させています。 ネタバレですが映画では徐々に暗示される内容ですので言及します。『オレンジと太陽』では性的虐待だけに焦点を絞られます。※※また、いくつかのエピソードでは登場人物を入れ替えられています。クライマックスでのセリフは、原作では現地の別の人物となっていますが、それを家族に変更しているのです。

 ストーリー化や刈り込みは、映画としての質を確保するための手段と言えるでしょう。映画原作は『からのゆりかご』ですが、ドキュメンタリーであるため、そのまま映画化すると冗長で退屈な、脚本、演出になってしまうことは避けられません。そこで作劇を重視し、物語として再構成した結果、映画として「鑑賞」できる作品に仕上がったのです。

 刈り込みはあったものの、不正義である児童移民への告発は鈍っておりません。刈り込みにより、原作で提示された数々の事実を減らすことになりますが、ハンフリーズが提示した問題意識は保持されています。児童移民問題とその解明も、映画はハンフリーズの視点で描けため、明快になっています。

 作劇も重視により、『オレンジと太陽』は、キチンと金をとれる映画になっています。ドラマとしても作劇しているため、ダレたりすることもありません。結果として、ドキュメンタリー映画のような、ドラマとしての退屈さは排除されている。鑑賞に躊躇はありません。。

 『オレンジと太陽』は観るべき映画です。岩波ホールの映画には当たり外れが多いことも事実ですが、東京市内まで出られる人であれば、今春観ておく映画です。そして映画に感ずるところがあれば『からのゆりかご』も読むべきでしょう。


※ ハンフリーズ,マーガレット著、都留信夫、都留敬子訳『からのゆりかご』(近代文藝社、2012)

※※ 少年、あるいは幼児と言われる子供へに対し、修道士が性的虐待を行います。

 この性的虐待についても、具体的な事例は『からのゆりかご』の方が詳しく書かれています。『からのゆりかご』では9歳半の男児を12ヶ月に20回犯す例や、別の男児を18夜連続で犯す例(315p)が挙げられています。

 カソリックによる性的虐待は、2000年以降に話題になりますが、ハンフリーズによる告発はその魁であったといえるでしょう。なったわけではないのでしょう。90年代にはハンフリーズが行った調査や、それに基づいたドキュメンタリーがイギリスやオーストラリアで放送されます。そこで明らかになった虐待、特に性的虐待により、児童移民がスキャンダルとして認識されるようになったのです。

※※※ 孤児に、豪州はいつも抜けるような青い空で、毎朝オレンジを食べられると勧誘するシーンがありますが、ドミニカ移民や満蒙開拓団を勧誘する文句そのものですねえ。
2012.04
04
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12:59
Category : 映画
 『ゴジラ』(東宝、1954年)より。

 卒業証明と成績証明をとりに、学校に行ったのだが。死に絶えたと思われた太古の政治家がまだ生きていた。

明治の政治家


 証拠がこれ、カメラはウソをつかない。大学で卒業式が続く限り、かならずや第二、第三の大隈が現れるのだろう。

 資格証明で、卒業証明と成績証明を取り行ったら(1通300円は安いが、学部と院で計1200円取られた)、大隈先生が復活し、ハーレム状態でビックリというところ。

 ちなみにアジア太平洋研究科の卒業式だって。


2012年03月26日 MIXI日記より


2011.08
07
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Category : 映画
昔のMIXI日記からサルベージ


映画の『八甲田山』観たのだが、不図思いついた。
無理に軍隊だけで八甲田山を超える必要はなかったんじゃないかな、と。

映画の中で、集落の長老が「隊長さん、露営なんてしないで、村に泊まってください、準備もできてますから」というシーンがあります。「自分たちの倅が軍隊に入っている。軍隊をもてなすことは、自分たちの倅をもてなすことだ」って心情があったわけです。

軍隊も、それに素直に従えばよかったのではないか、と。

『八甲田山』は映画ですが、戦前の日本では、国民が軍隊を助けようとする例は当たり前でした。戦前までは「天皇の軍隊」とは、天皇の臣民と一体にある「国民の軍隊」でもあったわけです。そして、徴兵制と郷土連隊主義の連結は、徴兵制は好ましくない制度だと思うのですが、国土防衛戦では無類の力を発揮するのです。

だから、ロシアと戦争になっても、無理して軍隊独力で八甲田山を通行する必要はなかったのではないかと思うのです。

だって「ロシアと戦になって、自分たちの倅が、兄弟が、亭主が自分たちを守るために軍隊に取られた」事態になったら、村々は軍隊を助けないわけがないからです。
「国民のものは針一本、糸一筋も盗まない」天皇の軍隊、国民の軍隊であるかぎり、何があっても国民は軍隊を助けますよ。

よしんば戦争になって、ロシア海軍力によって青森県の沿岸部が通行不能になり、軍隊が山越えをしなければならなかったとします。
でも軍隊が、あるいは国家が薪炭と糧食さえ用意すれば「自分たちの倅のために」村方で寝食は準備してくれるはずです。
だから、八甲田山越えも、地元の支援を前提にしてもよかったのではないか、と思い付いたわけです。

映画の本筋とは全然関係のない話ですけれども。

2007年10月29日 MIXI日記より
2011.02
19
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22:15
Category : 映画
 『戦火の中へ』(イ・ジェハン監督)の第一回上映を観てきました。

 内戦風味が不足と書きましたが、むしろ内戦風味が足された作品でした。

 『戦火の中へ』は朝鮮戦争での学徒兵の戦いを描いた作品です。この学徒兵の戦い、奮闘と悲劇は韓国にとっての建国神話なのでしょう。建国神話を公定ナショナリズムの観点だけであれば、英雄を顕彰するだけの無味乾燥なものになってしまいます。ですが、監督はそれを『血と砂』や『橋』のように描いています。学生が戦場に出て、兵士として悩みながら成長するが、血も流すという映画です。また、最初はうまくいかない学徒たちが、フード理論でいう「同じ釜の飯を食う」ことによって、本当の「カンパニー」=「中隊」=「同じ飯を食う仲間」になる姿も素晴らしいものでした。

 観客が没入しやすくするためでしょう、『戦火の中へ』では意識して公定ナショナリズム臭を消しています。そして、当時の実態に寄せる工夫をしています。映画の中では、基本的に「韓国」という言葉は出していません。おそらく、意識して「祖国」としています。また、公定ナショナリズムでは同情されないはずの北朝鮮軍の兵士にも、死ぬときに「お母さん」と言わせたり、北朝鮮軍の大隊長に、戦場では格別の暖かさを示させたりしています。これらは、内戦でもあった朝鮮戦争といった実態に近づける努力であるといえます。

 とはいえ、話の根本が建国神話である以上、学徒兵を英雄として顕彰する構図からも離れられません。映画のエンディングに、元学徒兵の体験談が挿入されている以上、戦いの意味は否定できないのです。映画での状況からすれば、あまり意味のない戦いに見えますが、それを『血と砂』や『橋』のように、目的が失われた戦争と表現することはできなかったのでしょう。学徒兵の死は無意味にはできないからです。ただし、この点は映画の中では上手にゴマかしているように見えます。

 もちろん、映画そのものは素晴らしい出来です。まず、迫力のあるアクション映画です。そして作劇もしっかりしています。2時間と長めですが、全く飽きることはありません。宣伝語句の『その勇気が未来を変えた』や『感動の実話』とはベクトルが違うかもしれませんが、『地と砂』や『橋』が好きな人ならたまらない映画だと思います。「オススメです」。
2011.02
17
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21:59
Category : 映画
 週末に封切りとなる韓国映画『戦火の中へ』 なのだが。 この予告編だと、ブローニングA4あたりで『独立機関銃隊いまだ射撃中』、『独立重機関銃隊』、あるいは『独立ギガン砲中隊』という形になるのかね。


http://www.youtube.com/watch?v=8CEQ9yqBrt8&feature=player_detailpage

 それはともかく。『戦火の中へ』 だが、予告編で見る限り、どうも国vs国の、国家同士の戦争をしているようにしか見えない。字幕の問題があるかもしれないが『戦火の中へ』 では、韓国側の兵隊も、学徒兵も、また北朝鮮軍も、半島以外の異民族を敵として戦っているように見える。学徒も「韓国のために戦う」イメージである。

 しかし、当時の半島の人々にとって、朝鮮戦争は国家同士の戦争ではない。少なくとも『戦火の中へ』で取り上げた1950年夏の段階では「韓国vs北朝鮮」の国家同士の戦争という認識は少なかったはずである。朝鮮半島研究の泰斗、ブルース・カミングスは、朝鮮戦争は内戦の延長と主張している。『戦火の中へ』予告編では、「祖国」という言葉が出てくる。だか、当時、祖国=韓国ではない。学徒にとっては、祖国は韓国ではなく「朝鮮」であるはずだ。祖国が「韓国」であるとする認識は、停戦以降の話である。この点で、朝鮮戦争から内戦風味を抜いた『戦火の中へ』は、今の時代の眼で当時を見た映画であるように見える。

 特に、気になる点は、学徒兵が「北の奴らを殺すためだろ!」(予告編0分40秒頃)と叫ぶところである。果たして、1950年代夏にそこまで北を、同じ民族の同胞を憎むことができたのだろうか。もちろん、予告編だけしか観ていないので、見当はずれかもしれない。例えば、戦争前に、迫害によって北から逃げてきたキリスト教徒や小資本家であるのかもしれない。ただ、そこまで直截に叫ぶことに(実際に、当時を体験した韓国人に聞くしかないが)違和感がある。



 まあ、朝鮮戦争には、同一民族での争いという側面が強い。映画としては、やはり最初のうちは「同じ朝鮮民族じゃないか」とかあるべきではないのかなあ。戦後の日本の映画でも、新兵さんは人間性が残っている。それが、殺したり、殺されたりで人間性を失うような描写になっている。果たして、いきなり憎めるものなのかねえ。
 映画としては、戦闘が終わって、傷者回収の折に、北の将校さんにもなにか、良いことを言わせてもいいんじゃないかねとも思うよ。作劇術上、北の将校さんを完全な悪役にしなければならないのであれば、無理なのかもしれないが。

 なんにせよ、映画本編を見ないと始まらないわけなので、週末にでも観に行こうかという話です。
2010.05
29
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22:56
Category : 映画
神保町まで出て映画を観た。
 『コロンブス 永遠の海』、監督が99歳(撮影当時)というのが売りの映画。微妙なのは承知で見に行ったが… やっぱりテンションは一切あがらない映画。まあソラリスの海?ついウトっと来た。

特徴を挙げるとね。

・ ドラマがない
・ 絵がよいわけでもない
・ 音楽も一つの旋律だけ

 加えて、

・ カタルシスもない

 なんとなく始まって、いつの間にか終わる。観客は100人以上いたと思うけど、終わった後でみんなポカンとしていた。違う意味でスゴイ面白い映画。(実際に、不思議と「掴まされた」感はない)

 ネタバレもなにもないから書いちゃうけれども、「コロンブスはポルトガル人」であるという主張(それなりの根拠はあるみたい)を、主人公の人生に合わせてズーッと進めていく。普通なならドラマを絡めたりするのだけれども、そういうものものない。なんせヒロイン、研究家の奥さんはいつも「スゴイわねー」で旦那をサポートし続けるのだもの。「私とコロン(コロンブス)のどっちが大事」位あってもいいんじゃないのかな。
 いや、確かにポルトガルは大航海時代のパイオニアであって、その意味でのポルトガル人としての歴史的誇りを否定するつもりは毛頭ないのだけれども。

 ポルトガルへのピュアな愛を暖かく見守る…というのならオススメ。


 興味深いのは…1946年にポルトガルからアメリカに移民するシーンなんだけれども、ちょうどよい商船がないせいか、フレッチャー級?あたりの駆逐艦を使っている。外見は艦橋後部から煙突前部に限定して、大砲とかマストとかうつらないようにしている。でもね、船内も駆逐艦のままじゃダメでしょう。科員の居住区をそのまま客室に使っているのだもの。