fc2ブログ

RSS
Admin
Archives

隅田金属日誌(墨田金属日誌)

隅田金属ぼるじひ社(コミケ:情報評論系/ミリタリ関係)の紹介用

プロフィール

文谷数重

Author:文谷数重
 零細サークルの隅田金属です。メカミリっぽいけど、メカミリではない、でもまあミリタリー風味といったところでしょうか。
 ちなみに、コミケでは「情報評論系」です

連絡先:q_montagne@pop02.odn.ne.jp

→ サークルMS「隅田金属」
→ 新刊・既刊等はこちら

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Powered by fc2 blog  |  Designed by sebek
2011.07
26
CM:0
TB:0
00:57
Category : 旧ソ連
 北方領土にある天寧飛行場は、冷戦期にコンクリート舗装されているのだが、おそらく日本製セメントが利用されている。連中からすれば「ソ連の果て」まで、セメントを運んだのでは輸送コストがかさんで仕方がない。当時、生産能力余剰に悩んでいた日本製セメントを買うのは、まあどっちにとっても悪い話じゃなかったのだけれどもね。
 ま、そのセメントの入手先を探っているときに発見したのだけれども。ソ連、セメントを北朝鮮から高値で輸入して、モンゴルに安値で輸出している。

 今もそうだが、ソ連極東部は物流状態が悪い。ソ連中心部との連絡が悪すぎたので、当時は日本(食料まで!)と北朝鮮から物資を購入してしのいでいた。ヨーロッパ・ロシアでは剰っていて、輸出している。そのような製品でも、極東では不足しており、輸入していたものも多い。

 その一つがセメントである。ヨーロッパ・ロシアで作られたセメントは海外に輸出していた。しかし、極東部では逆に購入している。極東への輸送力制限、あるいは輸送コストの問題である。ソ連は主として北朝鮮からセメントを購入していた。そして、同時にモンゴルにもセメントを輸出していた。おそらく、北朝鮮から購入したセメントをモンゴルに再輸出していたのだろう。

 で、その価格だが。
 ソ連は北朝鮮から、13ルーブル/トンでセメントを購入し、モンゴルに9ルーブル/トンで輸出している。参考までに、当時ソ連が東欧・アフリカ、中南米にセメントを輸出した際の価格は、19ルーブル(多分、FOB価格)である。

 コメコン体制下において、ソ連の収奪は有名な話。ソ連が購入するときは友好(ドルジバ)価格、輸出するときは国際価格、そういったジャイアニズムがまかりとおっていたのだが、極東部でのセメント輸出入に関しては、むしろ逆ざやであった。

 結果として、モンゴルに対して友好的な価格で売却したことは確かだろう。北朝鮮に対しては、軽く叩いているのかね。

 とはいえ、決済価格設定が、クレジット精算上のトリックである可能性もある。コメコン体制では、クレジットを設定して貿易やっていた。しかし、特にモンゴルが提供できる産品はどう考えても少種少量である。モンゴル側は大きなクレジットを設定できなかった。このた、実際に輸出入する価格をいじった可能性もある。セメントを安く売る代わりに、モンゴルに羊肉を安く提供させるとかあったかもしれない。

 あるいは、モンゴル優遇かもしれない。モンゴルはソ連最初のオトモダチ国家(衛星国ともいう)である。60年代以降は、中ソ対立の絡みもある。優遇する理由はある。また、モンゴル駐留ソ連軍のためにも社会資本が欲しい。だから、モンゴル優遇策として、セメントを安く売ってやってもいいのかもしれない。


2010年11月27日 MIXI日記より

今後、夏コミ作業がありますので、お盆明けまでは記事の間隔が開きます。あしからず
スポンサーサイト



2011.04
02
CM:0
TB:0
19:27
Category : 旧ソ連
 旧ソ連軍には、まともな渡洋侵攻・敵前上陸能力は保有していない。旧ソ連が保有した両用戦能力は、規模も質も限定されており、敵前渡河を拡大した程度に過ぎない。当時のDIA『ソ連とワルシャワ条約国の両用戦』(1984年 米部内向け資料 英文 Unclassfy)を見ても、ソ連両用戦戦力は大規模な渡洋侵攻や敵前上陸は難しいことを示している。『ソ連とワルシャワ条約国の両用戦』では、1967年から83年までに実施された東側の両用戦演習が提示されている。だが、提示中で最大規模の1981年に実施された演習でも、旧ソ連両用戦能力は限定された段階であったことが分かる。

 旧ソ連が実施できる両用戦は、規模として大きなものではない。1981年に実施された演習でも、参加兵力は艦艇100隻、戦車等100両、兵員6000人である。この演習では、不足する両用戦艦艇を北海艦隊と太平洋艦隊から回航・増援しているが、それでも6000人程度しか揚げることができていない。この6000名のうち、戦闘部隊は連隊×1と大隊×1、人数にすれば2000~3000人である。。

 両用戦の水準も、それほど高度なものでもない。1981年の演習では、上陸部隊は航空偵察を受けるが、航空攻撃は受けないことになっている。上陸部隊を直接護衛する戦力として潜水艦を使う不見識もある。対機雷戦部隊は83年演習まで登場しない。しかも航空掃海ではなく、掃海艇による掃海である。太平洋戦争での日米の戦いからすれば、そうとう甘い環境を想定している。

 旧ソ連にとって、両用戦とは渡河作戦であって、渡洋侵攻ではない。演習の中でなによりも奇妙であることは、上陸海岸の近くに味方地上部隊が存在する点である。ヘリの運用やLCMへの移乗は、既に味方部隊が占領した海岸や、その地先で実施されている。これは旧ソ連にとって両用戦とは、最終的には味方地上部隊と連絡をする発想であるということだ。旧ソ連にとって両用戦部隊とは、海岸沿いに侵攻する地上部隊を助けるため、海から先行し、港や橋のような重要地域を占領する手段である。概念的にはデサントであり、味方地上部隊の侵攻経路上に、先行して空挺部隊等を降下させるものである。技術的にも、それほど遠くない距離にある本隊(地上部隊)をあてにしている。水を渡るといっても、前提は渡河作戦であって、渡洋侵攻ではないのである。

 『ソ連とワルシャワ条約国の両用戦』には、ソ連海軍歩兵の運用想定についての記載もある。北海では、ノルウェー北部等での上陸作戦、黒海ではボスポラス海峡強襲を挙げているが、極東では防禦に用いられるだろうとしている。これは防備が希薄なノルウェー北部や、旧ソ連が圧倒的優勢であった黒海側からのボスポラス海峡には積極的に両用戦を実施できるが、日米が優勢であり、補給もままならない極東・太平洋方面では守勢しかとれないという見通しの裏返しである。

 旧ソ連には本格的な渡洋侵攻能力はない。両用戦とはいうものの、基本的には渡河作戦の延長に過ぎない。70年代半ば以降、世界的なソ連脅威論があり、その日本版としてソ連軍による日本侵攻の可能性も論議されていた。だが、旧ソ連の両用戦戦力や手法は、日本に攻め込める水準には達していなかったのである。その後のロシアにも日本を侵攻する能力はない。ロシアの戦力はソ連絶頂期の戦力には到底及ばない。守る側の日本にしても、80年代以降、防衛力は急速に強化されている。ロシアは、日本本土に上陸するどころか、日本側海空戦力排除することもままならないのである。

2010.09
26
CM:4
TB:0
23:04
Category : 旧ソ連
 70年代、ソ連は代理戦争であるベトナム戦争に勝利した。また、ソ連は極東方面の海軍力を強化した
 対して、米国はベトナム戦争で疲弊しきっていた。日本も、オイルショックにより経済成長は停滞していた。
 ソ連が強くなり、米国は弱くなり、日本の成長も止まる。そう見えたのだろう。だから日本ではソ連脅威論が台頭した

 しかし、その実態はどうか。文革により弱体化していた新中国もあわせて、日米中は相互に接近し、新しい対ソ封じ込め体制を作ってしまった。東アジアが日米・新中国・ソ連の3すくみ構造であれば、ソ連は対日米、対中で強く出ることができたかもしれない。それが、日米中が対ソ連ブロックとして連携してしまったため、ソ連は比較劣勢になってしまった。

 70年代は、ソ連は極東部では比較劣位の立場に転落してしまったとも言えるだろう。
 たしかに70年代、ソ連はスーパー・パワーとしての存在を演出しようとしていた。その宣伝、例えばオケアン演習やインド洋プレゼンスも一定の効果を上げていた。
 だが、その「成長の印象」が日米中の同盟関係を招いてしまったとも言えるだろう。実態からすれば、当時であってもソ連極東部は経済の限界を超えていた。軍事力にしても張子の虎に過ぎず、それを宣伝でカバーしていたわけだ。
 一種の騙しで凌いでいたのが、日米中が弱くなったため、薬が効きすぎて日米中を接近させ、対ソ連ブロックを作り出させてしまったのだろう。

 実際のところ、70年代ソ連の極東対米戦の目標は
・ オホーツク海に米海軍の進入を許さない
 だっただろう。

 しかし、実際に可能な行動としては
・ ウラジオ以東は守りきれない。
 ・ ペトロ以下の重要港湾は、敵中で孤立するのは仕方がない
 ・ ウラジオ付近で抵抗する
 あたりじゃなかったのだろうか。もちろん、日本人が北進するのもパッケージなんだろうけれどもね。(北方領土や樺太のソ連軍は、日本の北進対処用だろう)

 それに、70年後半からの米中接近を加味すると。対米戦と同時に、中国との戦争を考慮するとなると、さらに収集はつかなくなってしまうだろう。
 最悪で
・ イルクーツクまで踏み込まれないようにする
 あたりまで悪化したんじゃないだろうかね。

 まあ、70年代の日中、米中の接近はソ連にとってはエライことだったというわけだ。
2010.08
02
CM:0
TB:0
13:33
Category : 旧ソ連
いやね『ハンガリーの記録』を読んでいて気になった写真なんだけれども。

チェコ動乱

KV戦車の回収車

米国大使館USIS 1957年3月 11頁の写真から
なお、団体名義かつ発行後50年を経過しているため、著作権保護期間を経過している


 この戦車回収車って、ソ連製じゃあないように見えるんだよね。車体前部の形式とか、キャタピラのパターンとか。(後に、KV戦車の回収型と判明)

 この『ハンガリーの記録』、要は米国によるソ連非難の宣伝。まあ非難の内容は妥当なんだけれども、結局は米国もハンガリーを見殺しにしているわけだ。東側ブロックにおけるソ連の宗主権を暗黙に認めているのだから、便乗的な宣伝臭が少々。

 米国が介入を避けた理由は、第三次世界大戦の恐怖が最大だっただろうけれども。ソ連によって安定した東欧が介入によって麻が乱れる如くとなる可能性、さらにそれを再安定させる自信もなかったのではないのかね。
 東欧諸国って、戦前には国境紛争も絶えず、戦後最初にやったことも国内外国人・異民族の排除だった。ドイツ人(14世紀以来混住)どころか、自国にとって異民族となるポーランド人やチェコ人、マジャール人を相互に追放するカオスだった。
 それを安定させたという意味で、実態は武力の威圧、経済的収奪を伴う「ソビエトのくびき」だったわけだけれども。「ソ連による平和」にもある種の効用はあったわけだ。
 それなりに壊れるとめんどくさいものだから、介入していいこともないとも考えたかもしれない。

 うーん、東欧・西欧の両方から、ソ連が憎まれ役を果たしているという当時の現状も米英にとっても悪いものでもなかったんじゃないのかねえ。
 例えば駐独ソ連軍は、東ドイツの民族主義へのビンのフタである。その上、西ドイツを西側に依存させる要素ともなる。オーストリアを西側に惹きつける要素にもなるとかね。

 いや、えらく脱線したけれども。この本で一番面白かった(不謹慎か)ところは、ハンガリー動乱そのものへの言及ではなく、東側諸国の反ソ抵抗・反抗を示唆しているところ。

 巻末の年表に
「(1956年)十二月二十五日 チェコスロバキアは、毎夜行っていたソ連国家の放送をこの日から取りやめる」
 とあるのだけれども。これなんか「ないものを見つける」意味でスゲー興味深い。

 つれづれに書いたので、なんかとりとめないけど、明日も始発の仕事だからこんなところで。

2010年01月26日 MIXI日記から転載
2010.06
03
CM:0
TB:0
23:51
Category : 旧ソ連
国立国会でアエロフロートの機内誌を読んでいて発見。

国際南極横断観測プロジェクトにソ連(当時)が参加。
航空補給の必要が生まれたため、IL-76TDを南極のキングジョージ飛行場に派出することになったのだが、滑走路が1232mしかない。140トンの貨物を搭載したIL-76TDは最低1600m(この数値はうろ覚え)の着陸距離が必要。

この難プロジェクトを担当したソ連功労パイロット、S.ブルズニュクは見事に問題を解決した。

1 エンジンは、着陸前に4発ともリバース(逆噴射)する。
2 着陸前にエアブレーキを全開にする。
3 同様の効果を狙って、着陸前に全てのドアを開ける。
4 タイヤの空気圧を1/2とする(接地面積が大きくなるので、抵抗になる)
→ 着陸距離、750mを達成

…航空安全の意識が疑われるのだけれども、それを堂々と誇るように、しかも民間航空機の機内誌で「スゴイでしょ」と言ってのけるところが大陸性のロシア人。

実際は、着地寸前に失速させ、そのままの姿勢で滑走路に入り込み、行き足も無理やり殺したということだろう。

MIXI日記 2010年03月27日より