Category : ミリタリー
連休はどこも混んでいるもので、買うだけ買って積んでおいた本を読んでいます。
Rossiterさんの"Sink the Belgranoga"※ がなかなか面白い。潜水艦による水上目標襲撃について具体的な行動、速力や深度、探知距離が明記されている。肝心なところはボカしているのかもしれないけれども、ルポルタージュだからそれなりに信用していい数字なんでしょう。
フォークランド紛争では、英原潜コンカラーがアルゼンチン巡洋艦ベルグラーノを沈めた。よく知られた紛争のエピソードで、最終段階では戦前タイプの旧式直進魚雷を利用しているといった部分は有名です。色んな本や記事で、日本語でも容易に読めます。
しかし、潜水艦による水上襲撃について、各段階に言及している本はありません。
まず、最初にソーナー探知できた距離が30マイル(陸マイル)であることが明記されています。探知距離50kmで、距離に直すと大西洋での第2CZになります。ただし、簡単な航跡図では、コンカラーは比較的浅い大陸棚にいる。CZは発生しない水深です。
コンカラーは追跡を始めますが、その際に15ktで航走しています。最大静粛速力がその程度なのでしょう。相手は巡洋艦・駆逐艦とも旧式艦であり、ソーナー能力が低いことを見越して、多少高速で航走したかも知れません。それでも15kt以上は出さなかった様子です。この間、時折4-5ktまで減速していますが、これはソーナーを使用するための減速です。自艦航走による雑音を避けるために減速しています。また随伴タンカーが出すディーゼル音を探知、645hzであったとし、6気筒、2ストロークであることも分かったとしています。
追跡は潜水襲撃圏※※ に収めようとする行動でもあります。本書では"Aproch Limited ANGLE"とされていますが"Limited Line of Submarged Aproch"でしょう。これは、目標に対して射点に入れる限界線です。自艦速力と目標速力、雷速、馳走距離で決まります。大雑把ですが、アルゼンチン側が20kt程度、コンカラーが15kt、雷速が45kt、馳走距離5km程度なら、だいたい目標前方50度に入らなければなりません。
やはり、最終段階では潜望鏡で確認しています。ソーナーである程度分かっても、結局は肉眼で確認する、あるいは確認したい気持ちがあるのでしょう。誤射防止もあるでしょう。また目標が何であるかを確認しなければ、戦果も不明になる。やはり肉眼で確認したい。高性能ソーナーを備えていても、最終段階では最低1回は露頂すると見てよいわけです。襲撃潜望鏡は余りにも小さく、容易に見つけられるものではありません。ですが、水上艦艇側にも、目視やレーダで発見するチャンスはなくはないのでしょう。
射点進入、離脱では、コンカラーは20kt以上を発揮しています。21-22ktですが、ダッシュしています。使用した魚雷が誘導機構を欠く直進魚雷であることもあるのでしょう。しかし、有利な対勢をとる必要があるので、発射寸前と発射後にはそれなりの速力を出すものと見ていいでしょう。水上艦艇側には、相手が静粛であっても、襲撃その時には所在を掴める可能性があるかもしれません。
"Sink the Belgranoga"は、潜水艦襲撃での様相を明らかしているのです。
コンカラーによる襲撃を参考にすると、中国海軍潜水艦による米空母機動部隊襲撃は難しそうです。特に、第二列島線まで前進しての邀撃は容易ではありません。
特に潜水襲撃圏に移動することが困難です。コンカラーは最大静粛速力で15ktを発揮できましたが、平均15kt程度で行動したアルゼンチン艦隊を補足するには苦労しています。
まず中国原潜が、米空母機動部隊周辺で15ktも出せるか疑問です。そもそも静粛性が高いわけではなく、加えて米空母機動部隊が持つ対潜バリアーへの被探知を避けなければなりません。中国原潜が高い静粛性を持っているとする話はありません。また米空母機動部隊は、哨戒機による前路哨戒があり、艦隊直前も艦載ヘリがパッシブで哨戒しています。
また、目標としての米空母機動部隊も高速で移動しています。特に潜水艦脅威があれば、20ktを超えるスピードを発揮するでしょう。米側は20kt以上でも潜水艦を探知できます。高速発揮による雑音で、水上艦によるパッシブ探知は難しいですが、航空機による前路哨戒があります。また、空母直近でも、空母艦載ヘリはアクティブで哨戒しています。おそらく、米軍相手に15ktを出せない潜水艦は、空母機動部隊の針路上にいない限り、接敵できません。
第二列島線まで前進した邀撃は、中国原潜でも難しいわけです。
トランジット速力で劣る在来潜水艦では、幸運がない限り接敵も難しい。静粛性に優れると言われるキロ、宋、元であったとしても、米海軍邀撃を意図するなら、基本は第一列島線周辺から中国内側でしか使えないと見るべきでしょう。
※ Rossiter,Mike, Sink the Belgrano, (Bantam Press,London,2007)
※※ 日本での術語としての正式名は知らない。潜水艦関係者なら知っているだろうけど、あの人達は口が堅いから教えてくれないし、教えてもらっても難しいからすぐに忘れてしまう。まあ「二酸化炭素濃度が高くて困って、甕から吸収剤を柄杓で汲んで直撒した」みたいに、今は使っていないアミンみたいな話なら教えてくれるんだけどね。
Rossiterさんの"Sink the Belgranoga"※ がなかなか面白い。潜水艦による水上目標襲撃について具体的な行動、速力や深度、探知距離が明記されている。肝心なところはボカしているのかもしれないけれども、ルポルタージュだからそれなりに信用していい数字なんでしょう。
フォークランド紛争では、英原潜コンカラーがアルゼンチン巡洋艦ベルグラーノを沈めた。よく知られた紛争のエピソードで、最終段階では戦前タイプの旧式直進魚雷を利用しているといった部分は有名です。色んな本や記事で、日本語でも容易に読めます。
しかし、潜水艦による水上襲撃について、各段階に言及している本はありません。
まず、最初にソーナー探知できた距離が30マイル(陸マイル)であることが明記されています。探知距離50kmで、距離に直すと大西洋での第2CZになります。ただし、簡単な航跡図では、コンカラーは比較的浅い大陸棚にいる。CZは発生しない水深です。
コンカラーは追跡を始めますが、その際に15ktで航走しています。最大静粛速力がその程度なのでしょう。相手は巡洋艦・駆逐艦とも旧式艦であり、ソーナー能力が低いことを見越して、多少高速で航走したかも知れません。それでも15kt以上は出さなかった様子です。この間、時折4-5ktまで減速していますが、これはソーナーを使用するための減速です。自艦航走による雑音を避けるために減速しています。また随伴タンカーが出すディーゼル音を探知、645hzであったとし、6気筒、2ストロークであることも分かったとしています。
追跡は潜水襲撃圏※※ に収めようとする行動でもあります。本書では"Aproch Limited ANGLE"とされていますが"Limited Line of Submarged Aproch"でしょう。これは、目標に対して射点に入れる限界線です。自艦速力と目標速力、雷速、馳走距離で決まります。大雑把ですが、アルゼンチン側が20kt程度、コンカラーが15kt、雷速が45kt、馳走距離5km程度なら、だいたい目標前方50度に入らなければなりません。
やはり、最終段階では潜望鏡で確認しています。ソーナーである程度分かっても、結局は肉眼で確認する、あるいは確認したい気持ちがあるのでしょう。誤射防止もあるでしょう。また目標が何であるかを確認しなければ、戦果も不明になる。やはり肉眼で確認したい。高性能ソーナーを備えていても、最終段階では最低1回は露頂すると見てよいわけです。襲撃潜望鏡は余りにも小さく、容易に見つけられるものではありません。ですが、水上艦艇側にも、目視やレーダで発見するチャンスはなくはないのでしょう。
射点進入、離脱では、コンカラーは20kt以上を発揮しています。21-22ktですが、ダッシュしています。使用した魚雷が誘導機構を欠く直進魚雷であることもあるのでしょう。しかし、有利な対勢をとる必要があるので、発射寸前と発射後にはそれなりの速力を出すものと見ていいでしょう。水上艦艇側には、相手が静粛であっても、襲撃その時には所在を掴める可能性があるかもしれません。
"Sink the Belgranoga"は、潜水艦襲撃での様相を明らかしているのです。
コンカラーによる襲撃を参考にすると、中国海軍潜水艦による米空母機動部隊襲撃は難しそうです。特に、第二列島線まで前進しての邀撃は容易ではありません。
特に潜水襲撃圏に移動することが困難です。コンカラーは最大静粛速力で15ktを発揮できましたが、平均15kt程度で行動したアルゼンチン艦隊を補足するには苦労しています。
まず中国原潜が、米空母機動部隊周辺で15ktも出せるか疑問です。そもそも静粛性が高いわけではなく、加えて米空母機動部隊が持つ対潜バリアーへの被探知を避けなければなりません。中国原潜が高い静粛性を持っているとする話はありません。また米空母機動部隊は、哨戒機による前路哨戒があり、艦隊直前も艦載ヘリがパッシブで哨戒しています。
また、目標としての米空母機動部隊も高速で移動しています。特に潜水艦脅威があれば、20ktを超えるスピードを発揮するでしょう。米側は20kt以上でも潜水艦を探知できます。高速発揮による雑音で、水上艦によるパッシブ探知は難しいですが、航空機による前路哨戒があります。また、空母直近でも、空母艦載ヘリはアクティブで哨戒しています。おそらく、米軍相手に15ktを出せない潜水艦は、空母機動部隊の針路上にいない限り、接敵できません。
第二列島線まで前進した邀撃は、中国原潜でも難しいわけです。
トランジット速力で劣る在来潜水艦では、幸運がない限り接敵も難しい。静粛性に優れると言われるキロ、宋、元であったとしても、米海軍邀撃を意図するなら、基本は第一列島線周辺から中国内側でしか使えないと見るべきでしょう。
※ Rossiter,Mike, Sink the Belgrano, (Bantam Press,London,2007)
※※ 日本での術語としての正式名は知らない。潜水艦関係者なら知っているだろうけど、あの人達は口が堅いから教えてくれないし、教えてもらっても難しいからすぐに忘れてしまう。まあ「二酸化炭素濃度が高くて困って、甕から吸収剤を柄杓で汲んで直撒した」みたいに、今は使っていないアミンみたいな話なら教えてくれるんだけどね。
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Category : 映画
岩波ホールで『オレンジと太陽』を観てきました。
白豪主義を維持するため、英国は本土から民族的に正しい孤児を輸出した。そういった内容の映画でした。岩波ホールで上映されている『オレンジと太陽』です。映画の筋書きは、http://oranges-movie.com/aboutmovie.htmlが大概になります。映画も出来はよろしくオススメですが、映画を見た後で、主人公であるハンフリーズによる『からのゆりかご』※を読むとよろしいでしょう。
映画『オレンジと太陽』は、かつて児童移民としてオーストラリアに送られた孤児たちに光をあてる作品です。成長した子供たちは、自分たちが何者であるのか、ルーツを、アイデンティティを渇望します。棄民として輸出されたかつての孤児を救うため、彼らが何者であるのかを明らかにするため、80年代から戦ったハンフリーズを描いた映画です。
オーストラリアへの児童移民は、残酷なものでした。児童移民は1970年まで続きますが、その待遇は1870年代かそれ以前の水準です。孤児の環境が過酷であった点は、映画だけでも充分に表現されています。しかし、映画ですので作劇術で刈り込まれた部分もあります。児童移民に与えられた残酷な取扱は『からのゆりかご』でより具体的に記述しています。
まず本人意思も明確ではない児童を、親の承諾なしで地球の裏側、オーストラリアに移民として送り込むのです。その後に、子供たちは親との連絡はまったくとることができない。生きているにもかかわらず、親は死んだと説明される。場合によれば、名前や出生日といったアイデンティティも操作され、外地に輸出されてしまいます。
当然ですが、オーストラリアには親類縁者いません。子供たちは宗教施設に放り込まれます。送り出す側も、引き取る側も主流は宗教団体です。カソリックが児童移民の発端ですが、英国国教会も、スコットランド国教会も、長老派協会も後に参加しています。
『からのゆりかご』は、過酷な取扱を直接的に記述しています。
子供たちはオーストラリアで劣悪な環境に置かれる。孤児院には、子供を保護する親の愛情はありません。カソリック系孤児院では、子供は劣悪な環境に置かれます。オーストラリア児童福祉局によるレポートでは「ベッドの下には多量の小水が溜ったままである。拭きとった形跡もなく、乾いて塩の結晶ができている。小水の塩分でベッドのスプリングは錆び、色がにじみ出ている(大意)」(304p)と述べられています。また、扱いも過酷です。アデレイドにあったグッドウッド孤児院では、靴下に穴が開いている、祈祷書の言葉を間違えた、服にシミをつけたといった理由で少女が全裸にされ、尼僧に鞭で叩かれた例(119p)も示されます。
15歳になって孤児院を出ても、過酷な取扱は続きます。農園に引き渡されるのですが、そこでの扱いは、農奴や召使の扱いです。奴隷的な扱いであり、休みは6週間に一回。女子の例では、農園の長男による強姦未遂が何回も繰り返され、誰も助けてくれないといったエピソード(119p)が語られているのです。
児童移民の目的も不純です。オーストラリア人は、アジア人に圧力を感じていた。アジア人種に対抗するためには白人移民が必要である。それも、価値観が固まっておらず、オーストラリアでの過酷な農場労働に疑問を抱かない子供が最適であると判断されました。子供は、宗教的に白紙であるため、本国では権威が低下した教会価値観を刷り込み易いといった点も、提案した宗教団体にとって有利な点でした。
『からのゆりかご』では、児童移民を提唱した宗教指導者、特にカソリックの発言も提示されています。修道士は「『少年たちには魂の底まで宗教を教え込みます』」(269p)と発言しています。大司教は「『もしこの[人口]不足を我々と同じ人種で補うことができなければ、我々は近隣地域に住む多産のアジア諸種族の脅威に身をさらすままになる』」(269p)と主張しています。戦争直後の1945年にも、カソリック系新聞は「過去六十年にわたる避妊によって失われた6個師団分の潜在的[人口減により][中略]日本との戦争はよく考えても延期されているにすぎない。北からアジアが迫ってきている」(269p)と述べています。
オーストラリアへの児童移民、孤児輸出がもっとも過酷な結果を生み出しました。同時期、ローデシアにも児童移民は行われましたが、子供の意志、親権者の承諾、親との連絡は確実であり、特に問題があるものではありません。到着後の環境も人道的であり、学校に通い、高級な教育を受け、後には社会の中心に出る機会が与えられています。対してオーストラリア向けが悲惨な結果となった理由は、やはり農奴(そういって差し支えないでしょう)として孤児を輸出する発想にありました。
『からのゆりかご』がオーストラリアへの児童移民に焦点を当てた理由は、非人道性が際立っていたためです。『からのゆりかご』では、ほかにもカナダ、ローデシアへの児童移民もルポされています。しかし、問題はオーストラリアへの児童移民に絞られています。その理由は、オーストラリア向けが際立って悲惨であったためです。
このため、映画化もオーストラリア向け児童移民に絞られています。題名も『からのゆりかご』ではなく、『オレンジと太陽』※※※ とオーストラリアを指すフレーズに変えられています。
映画『オレンジと太陽』は、ハンフリーズを主人公にしています。原作は『からのゆりかご』であり、テーマはオーストラリアへの児童移民であることには変わりありません。しかし、ルポルタージュではなく、ハンフリーズの物語として作り変えています。ハンフリーズと夫、その子供達を主軸に再構成されました。かつての孤児たちと交歓し、英豪両政府と戦う姿は原作のままですが、そこに家族とハンフリーズの関係が持ち込まれております。ハンフリーズは児童移民問題に献身的に取り組みますが、同時に彼女が家族から離れた結果、生まれる苦しみとの葛藤も描いています。
また『からのゆりかご』で項目立てされたテーマも大きく刈り込まれています。まず、カナダとローデシアへの児童移民は映画では取り上げられません。オーストラリアでの虐待も、特に性的虐待に代表させています。 ネタバレですが映画では徐々に暗示される内容ですので言及します。『オレンジと太陽』では性的虐待だけに焦点を絞られます。※※また、いくつかのエピソードでは登場人物を入れ替えられています。クライマックスでのセリフは、原作では現地の別の人物となっていますが、それを家族に変更しているのです。
ストーリー化や刈り込みは、映画としての質を確保するための手段と言えるでしょう。映画原作は『からのゆりかご』ですが、ドキュメンタリーであるため、そのまま映画化すると冗長で退屈な、脚本、演出になってしまうことは避けられません。そこで作劇を重視し、物語として再構成した結果、映画として「鑑賞」できる作品に仕上がったのです。
刈り込みはあったものの、不正義である児童移民への告発は鈍っておりません。刈り込みにより、原作で提示された数々の事実を減らすことになりますが、ハンフリーズが提示した問題意識は保持されています。児童移民問題とその解明も、映画はハンフリーズの視点で描けため、明快になっています。
作劇も重視により、『オレンジと太陽』は、キチンと金をとれる映画になっています。ドラマとしても作劇しているため、ダレたりすることもありません。結果として、ドキュメンタリー映画のような、ドラマとしての退屈さは排除されている。鑑賞に躊躇はありません。。
『オレンジと太陽』は観るべき映画です。岩波ホールの映画には当たり外れが多いことも事実ですが、東京市内まで出られる人であれば、今春観ておく映画です。そして映画に感ずるところがあれば『からのゆりかご』も読むべきでしょう。
※ ハンフリーズ,マーガレット著、都留信夫、都留敬子訳『からのゆりかご』(近代文藝社、2012)
※※ 少年、あるいは幼児と言われる子供へに対し、修道士が性的虐待を行います。
この性的虐待についても、具体的な事例は『からのゆりかご』の方が詳しく書かれています。『からのゆりかご』では9歳半の男児を12ヶ月に20回犯す例や、別の男児を18夜連続で犯す例(315p)が挙げられています。
カソリックによる性的虐待は、2000年以降に話題になりますが、ハンフリーズによる告発はその魁であったといえるでしょう。なったわけではないのでしょう。90年代にはハンフリーズが行った調査や、それに基づいたドキュメンタリーがイギリスやオーストラリアで放送されます。そこで明らかになった虐待、特に性的虐待により、児童移民がスキャンダルとして認識されるようになったのです。
※※※ 孤児に、豪州はいつも抜けるような青い空で、毎朝オレンジを食べられると勧誘するシーンがありますが、ドミニカ移民や満蒙開拓団を勧誘する文句そのものですねえ。
白豪主義を維持するため、英国は本土から民族的に正しい孤児を輸出した。そういった内容の映画でした。岩波ホールで上映されている『オレンジと太陽』です。映画の筋書きは、http://oranges-movie.com/aboutmovie.htmlが大概になります。映画も出来はよろしくオススメですが、映画を見た後で、主人公であるハンフリーズによる『からのゆりかご』※を読むとよろしいでしょう。
映画『オレンジと太陽』は、かつて児童移民としてオーストラリアに送られた孤児たちに光をあてる作品です。成長した子供たちは、自分たちが何者であるのか、ルーツを、アイデンティティを渇望します。棄民として輸出されたかつての孤児を救うため、彼らが何者であるのかを明らかにするため、80年代から戦ったハンフリーズを描いた映画です。
オーストラリアへの児童移民は、残酷なものでした。児童移民は1970年まで続きますが、その待遇は1870年代かそれ以前の水準です。孤児の環境が過酷であった点は、映画だけでも充分に表現されています。しかし、映画ですので作劇術で刈り込まれた部分もあります。児童移民に与えられた残酷な取扱は『からのゆりかご』でより具体的に記述しています。
まず本人意思も明確ではない児童を、親の承諾なしで地球の裏側、オーストラリアに移民として送り込むのです。その後に、子供たちは親との連絡はまったくとることができない。生きているにもかかわらず、親は死んだと説明される。場合によれば、名前や出生日といったアイデンティティも操作され、外地に輸出されてしまいます。
当然ですが、オーストラリアには親類縁者いません。子供たちは宗教施設に放り込まれます。送り出す側も、引き取る側も主流は宗教団体です。カソリックが児童移民の発端ですが、英国国教会も、スコットランド国教会も、長老派協会も後に参加しています。
『からのゆりかご』は、過酷な取扱を直接的に記述しています。
子供たちはオーストラリアで劣悪な環境に置かれる。孤児院には、子供を保護する親の愛情はありません。カソリック系孤児院では、子供は劣悪な環境に置かれます。オーストラリア児童福祉局によるレポートでは「ベッドの下には多量の小水が溜ったままである。拭きとった形跡もなく、乾いて塩の結晶ができている。小水の塩分でベッドのスプリングは錆び、色がにじみ出ている(大意)」(304p)と述べられています。また、扱いも過酷です。アデレイドにあったグッドウッド孤児院では、靴下に穴が開いている、祈祷書の言葉を間違えた、服にシミをつけたといった理由で少女が全裸にされ、尼僧に鞭で叩かれた例(119p)も示されます。
15歳になって孤児院を出ても、過酷な取扱は続きます。農園に引き渡されるのですが、そこでの扱いは、農奴や召使の扱いです。奴隷的な扱いであり、休みは6週間に一回。女子の例では、農園の長男による強姦未遂が何回も繰り返され、誰も助けてくれないといったエピソード(119p)が語られているのです。
児童移民の目的も不純です。オーストラリア人は、アジア人に圧力を感じていた。アジア人種に対抗するためには白人移民が必要である。それも、価値観が固まっておらず、オーストラリアでの過酷な農場労働に疑問を抱かない子供が最適であると判断されました。子供は、宗教的に白紙であるため、本国では権威が低下した教会価値観を刷り込み易いといった点も、提案した宗教団体にとって有利な点でした。
『からのゆりかご』では、児童移民を提唱した宗教指導者、特にカソリックの発言も提示されています。修道士は「『少年たちには魂の底まで宗教を教え込みます』」(269p)と発言しています。大司教は「『もしこの[人口]不足を我々と同じ人種で補うことができなければ、我々は近隣地域に住む多産のアジア諸種族の脅威に身をさらすままになる』」(269p)と主張しています。戦争直後の1945年にも、カソリック系新聞は「過去六十年にわたる避妊によって失われた6個師団分の潜在的[人口減により][中略]日本との戦争はよく考えても延期されているにすぎない。北からアジアが迫ってきている」(269p)と述べています。
オーストラリアへの児童移民、孤児輸出がもっとも過酷な結果を生み出しました。同時期、ローデシアにも児童移民は行われましたが、子供の意志、親権者の承諾、親との連絡は確実であり、特に問題があるものではありません。到着後の環境も人道的であり、学校に通い、高級な教育を受け、後には社会の中心に出る機会が与えられています。対してオーストラリア向けが悲惨な結果となった理由は、やはり農奴(そういって差し支えないでしょう)として孤児を輸出する発想にありました。
『からのゆりかご』がオーストラリアへの児童移民に焦点を当てた理由は、非人道性が際立っていたためです。『からのゆりかご』では、ほかにもカナダ、ローデシアへの児童移民もルポされています。しかし、問題はオーストラリアへの児童移民に絞られています。その理由は、オーストラリア向けが際立って悲惨であったためです。
このため、映画化もオーストラリア向け児童移民に絞られています。題名も『からのゆりかご』ではなく、『オレンジと太陽』※※※ とオーストラリアを指すフレーズに変えられています。
映画『オレンジと太陽』は、ハンフリーズを主人公にしています。原作は『からのゆりかご』であり、テーマはオーストラリアへの児童移民であることには変わりありません。しかし、ルポルタージュではなく、ハンフリーズの物語として作り変えています。ハンフリーズと夫、その子供達を主軸に再構成されました。かつての孤児たちと交歓し、英豪両政府と戦う姿は原作のままですが、そこに家族とハンフリーズの関係が持ち込まれております。ハンフリーズは児童移民問題に献身的に取り組みますが、同時に彼女が家族から離れた結果、生まれる苦しみとの葛藤も描いています。
また『からのゆりかご』で項目立てされたテーマも大きく刈り込まれています。まず、カナダとローデシアへの児童移民は映画では取り上げられません。オーストラリアでの虐待も、特に性的虐待に代表させています。 ネタバレですが映画では徐々に暗示される内容ですので言及します。『オレンジと太陽』では性的虐待だけに焦点を絞られます。※※また、いくつかのエピソードでは登場人物を入れ替えられています。クライマックスでのセリフは、原作では現地の別の人物となっていますが、それを家族に変更しているのです。
ストーリー化や刈り込みは、映画としての質を確保するための手段と言えるでしょう。映画原作は『からのゆりかご』ですが、ドキュメンタリーであるため、そのまま映画化すると冗長で退屈な、脚本、演出になってしまうことは避けられません。そこで作劇を重視し、物語として再構成した結果、映画として「鑑賞」できる作品に仕上がったのです。
刈り込みはあったものの、不正義である児童移民への告発は鈍っておりません。刈り込みにより、原作で提示された数々の事実を減らすことになりますが、ハンフリーズが提示した問題意識は保持されています。児童移民問題とその解明も、映画はハンフリーズの視点で描けため、明快になっています。
作劇も重視により、『オレンジと太陽』は、キチンと金をとれる映画になっています。ドラマとしても作劇しているため、ダレたりすることもありません。結果として、ドキュメンタリー映画のような、ドラマとしての退屈さは排除されている。鑑賞に躊躇はありません。。
『オレンジと太陽』は観るべき映画です。岩波ホールの映画には当たり外れが多いことも事実ですが、東京市内まで出られる人であれば、今春観ておく映画です。そして映画に感ずるところがあれば『からのゆりかご』も読むべきでしょう。
※ ハンフリーズ,マーガレット著、都留信夫、都留敬子訳『からのゆりかご』(近代文藝社、2012)
※※ 少年、あるいは幼児と言われる子供へに対し、修道士が性的虐待を行います。
この性的虐待についても、具体的な事例は『からのゆりかご』の方が詳しく書かれています。『からのゆりかご』では9歳半の男児を12ヶ月に20回犯す例や、別の男児を18夜連続で犯す例(315p)が挙げられています。
カソリックによる性的虐待は、2000年以降に話題になりますが、ハンフリーズによる告発はその魁であったといえるでしょう。なったわけではないのでしょう。90年代にはハンフリーズが行った調査や、それに基づいたドキュメンタリーがイギリスやオーストラリアで放送されます。そこで明らかになった虐待、特に性的虐待により、児童移民がスキャンダルとして認識されるようになったのです。
※※※ 孤児に、豪州はいつも抜けるような青い空で、毎朝オレンジを食べられると勧誘するシーンがありますが、ドミニカ移民や満蒙開拓団を勧誘する文句そのものですねえ。
Category : 有職故実
毒蝮三太夫が「渋谷には水車があった」と言った。マムシは平日午前10時半にラジオにでるが、昨日(4月26日)は午後の番組にも出ていた。そこで渋谷の思い出として「水車を見たという古老と話したことがある」※ と述べている。
渋谷に流れる渋谷川には、水車が八軒あった。篠田鉱造が古老から聞き取った『明治百話』には「渋谷の玉川水車」※※ と題する話がある。渋谷川にある「庚申橋△氷川橋△橋戸(並木橋)△加藤が両軒△一ノ橋に今一軒あった」、この八軒とは別に「青山八右衛門という人が、水車を掛けたので」八軒は訴訟をしたという。最大九軒水車があったことになる。
この「渋谷の玉川水車」には、カワウソも出てくる。当時、渋谷には狐や狸も出てくる。川では鮎も海老も取れる。そして渋谷川でカワウソを獲って見世物として花屋敷に100円で売り払う話も出てくるのである。
渋谷の蕎麦屋は狸に化かされている。渋谷には、後に福沢家の別荘となった梅屋敷があり、その隣にある蕎麦屋に子供を背負ったおっ母さんが蕎麦を買いに来る。買った後で代金を見ると、嘘か真か木の葉であったという。蕎麦屋の脇では明治になった後で仇討ちもあった。蕎麦屋は後に仙台坂下に移ったとされている。
明治の聖代、渋谷は郊外にある農村である。周囲を見ても、原宿には陸軍の練兵場があり、目黒には海軍火薬庫がおかれていた。川には水車があって、カワウソが生息できるほど自然が残っていたわけだ。当時の東京郊外、その名残となるのは、白金にある自然教育園くらいなものか。火薬庫保安用地としての名残であるが、当時所々にあった里山とも違うようだ。自然教育園は人間は関与しない方針であり、たとえ帰化植物が侵入してもそのままにされている。
マムシが出会った古老は、最後の水車を知っていた世代なのだろう。明治30年には玉川水車も電気化されている。マムシは昭和11年生まれなので、天保銭は無理にしても、嘉永安政万延文久が生き残っている。明治30年はついこの間で、水車の話はいくらでも聞ける。またラジオでも会える、マムシは昭和44年から毎日ラジオに出ている。明治25年(1892年)生まれは、昭和50年には八十七、まだまだ生き残っている時代である。
※ 自動車運転中のため、記憶による。
TBSラジオ「たまむすび」2012年4月26日15時から30分間。
※※ 篠田鉱造「渋谷の玉川水車」『明治百話 下』(岩波書店,1996)pp.168-173.による。
渋谷に流れる渋谷川には、水車が八軒あった。篠田鉱造が古老から聞き取った『明治百話』には「渋谷の玉川水車」※※ と題する話がある。渋谷川にある「庚申橋△氷川橋△橋戸(並木橋)△加藤が両軒△一ノ橋に今一軒あった」、この八軒とは別に「青山八右衛門という人が、水車を掛けたので」八軒は訴訟をしたという。最大九軒水車があったことになる。
この「渋谷の玉川水車」には、カワウソも出てくる。当時、渋谷には狐や狸も出てくる。川では鮎も海老も取れる。そして渋谷川でカワウソを獲って見世物として花屋敷に100円で売り払う話も出てくるのである。
渋谷の蕎麦屋は狸に化かされている。渋谷には、後に福沢家の別荘となった梅屋敷があり、その隣にある蕎麦屋に子供を背負ったおっ母さんが蕎麦を買いに来る。買った後で代金を見ると、嘘か真か木の葉であったという。蕎麦屋の脇では明治になった後で仇討ちもあった。蕎麦屋は後に仙台坂下に移ったとされている。
明治の聖代、渋谷は郊外にある農村である。周囲を見ても、原宿には陸軍の練兵場があり、目黒には海軍火薬庫がおかれていた。川には水車があって、カワウソが生息できるほど自然が残っていたわけだ。当時の東京郊外、その名残となるのは、白金にある自然教育園くらいなものか。火薬庫保安用地としての名残であるが、当時所々にあった里山とも違うようだ。自然教育園は人間は関与しない方針であり、たとえ帰化植物が侵入してもそのままにされている。
マムシが出会った古老は、最後の水車を知っていた世代なのだろう。明治30年には玉川水車も電気化されている。マムシは昭和11年生まれなので、天保銭は無理にしても、嘉永安政万延文久が生き残っている。明治30年はついこの間で、水車の話はいくらでも聞ける。またラジオでも会える、マムシは昭和44年から毎日ラジオに出ている。明治25年(1892年)生まれは、昭和50年には八十七、まだまだ生き残っている時代である。
※ 自動車運転中のため、記憶による。
TBSラジオ「たまむすび」2012年4月26日15時から30分間。
※※ 篠田鉱造「渋谷の玉川水車」『明治百話 下』(岩波書店,1996)pp.168-173.による。
Category : ミリタリー
10式戦車が必要な理由ってないんだよね。「10式が要らないと主張するオマエはバカだ」みたいなコメントが、いまだに寄せられるのだけれども。なんで「10式戦車が必要だって」確信できるのかね。
まずさ、90式と似たような10式をわざわざ開発して調達する理由ってないじゃん。確かに、10式は機械的に優れているのかもしれませんね。攻防走について、大砲は90式よりもチョット初速がある、防御も少し重い90式と同じくらい、機動力も加速力が心持ち向上しているらしいけど。90式で能力値100だったのが、10式で101に向上した程度ですよ。大差もない戦車をわざわざ新開発する必要はなかったわけです。ドイツもアメリカも30年前に作った戦車を改修しているのに、わざわざ新規開発だもの。無駄ですよ。
そもそも、強力な戦車を必要とする理由もないわけだしね。冷戦終結以降、北の脅威もなくなった。まあ、冷戦期にも、ソ連が日本に攻め込めたかというと相当疑問なのだけれども、それは置いておく。冷戦終結とソ連崩壊によって、ロシアは極東地区で積極的な行動をとれなくなった。これは誰の眼で見ても明らかなわけです。その後に提唱された中国脅威論にしても「将来は強力になるカモ」といったもので、現実的な脅威でもない。なんにしても、対上陸戦に、真剣に準備する必要もないのです。前に述べたけどさ、本土防衛ならば74式でもシャーマンでも困らないですよ。しかも、現在主力は90式ですからね。
10式が必要な理由もないよね。対上陸戦に真剣に備えなければならない時代ではない。備えるにしても、陸自戦車隊は90式を主力としている。本土防衛には充分な、ある意味で過剰な質と量を確保している。その上で、90式と大差ない10式を開発する必要はなかったし、装備していく必要性も認められないわけです。
10式を調達する根拠を、ゲリラ・コマンド対策とするのも苦し紛れの現れです。すでに10式調達は、事業としてゲリコマ対策に事づけている。これは、対上陸戦で必要性がアピールできないことの裏返しです。しかも説得力もない。ゲリコマ対策であれば、戦車は必須というわけではない。あるに越したこともないという話で、それなら装甲車でも充分でしょう。キャタピラじゃなくて、車輪の方が展開で有利でしょ。ここで「パナールとかサラディンで充分」と書くと、過剰反応してくれるんだろうけどさ。ゲリコマ対策に限れば、パナールやサラディンみたいに大砲を積む必要も少ないね。それより機関砲の方が向いている。対HEATなんて、車体から浮かせて網でも貼っとけば充分じゃないの。
戦車について必要性を強調するには、海外派遣しかないでしょう。海外派遣は対上陸戦よりもよほどリアリティが高い。そのうち出ていくことにもなる。組織としての陸自が生き残るためには、海外派遣を表芸にするしかないでしょう。でも、戦車を連れて行くのも、相当高度な段階だね。あり得る順番から列挙からすれば、歩兵、ヘリ、装甲車…で、戦車は後ろの方になる。もちろん、大砲よりも前だろうけど。
まずさ、90式と似たような10式をわざわざ開発して調達する理由ってないじゃん。確かに、10式は機械的に優れているのかもしれませんね。攻防走について、大砲は90式よりもチョット初速がある、防御も少し重い90式と同じくらい、機動力も加速力が心持ち向上しているらしいけど。90式で能力値100だったのが、10式で101に向上した程度ですよ。大差もない戦車をわざわざ新開発する必要はなかったわけです。ドイツもアメリカも30年前に作った戦車を改修しているのに、わざわざ新規開発だもの。無駄ですよ。
そもそも、強力な戦車を必要とする理由もないわけだしね。冷戦終結以降、北の脅威もなくなった。まあ、冷戦期にも、ソ連が日本に攻め込めたかというと相当疑問なのだけれども、それは置いておく。冷戦終結とソ連崩壊によって、ロシアは極東地区で積極的な行動をとれなくなった。これは誰の眼で見ても明らかなわけです。その後に提唱された中国脅威論にしても「将来は強力になるカモ」といったもので、現実的な脅威でもない。なんにしても、対上陸戦に、真剣に準備する必要もないのです。前に述べたけどさ、本土防衛ならば74式でもシャーマンでも困らないですよ。しかも、現在主力は90式ですからね。
10式が必要な理由もないよね。対上陸戦に真剣に備えなければならない時代ではない。備えるにしても、陸自戦車隊は90式を主力としている。本土防衛には充分な、ある意味で過剰な質と量を確保している。その上で、90式と大差ない10式を開発する必要はなかったし、装備していく必要性も認められないわけです。
10式を調達する根拠を、ゲリラ・コマンド対策とするのも苦し紛れの現れです。すでに10式調達は、事業としてゲリコマ対策に事づけている。これは、対上陸戦で必要性がアピールできないことの裏返しです。しかも説得力もない。ゲリコマ対策であれば、戦車は必須というわけではない。あるに越したこともないという話で、それなら装甲車でも充分でしょう。キャタピラじゃなくて、車輪の方が展開で有利でしょ。ここで「パナールとかサラディンで充分」と書くと、過剰反応してくれるんだろうけどさ。ゲリコマ対策に限れば、パナールやサラディンみたいに大砲を積む必要も少ないね。それより機関砲の方が向いている。対HEATなんて、車体から浮かせて網でも貼っとけば充分じゃないの。
戦車について必要性を強調するには、海外派遣しかないでしょう。海外派遣は対上陸戦よりもよほどリアリティが高い。そのうち出ていくことにもなる。組織としての陸自が生き残るためには、海外派遣を表芸にするしかないでしょう。でも、戦車を連れて行くのも、相当高度な段階だね。あり得る順番から列挙からすれば、歩兵、ヘリ、装甲車…で、戦車は後ろの方になる。もちろん、大砲よりも前だろうけど。
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佐々木孝雄さんの「旧陸軍舟艇の思い出」※で発見。半潜水艇用?に計画された陸軍簡易魚雷で、実際には水上を滑走するロケットである。
推進力はロケットであって、ジャイロによる針路保持機構は持たない。
初期型は、魚雷と同じ形状にされた。旋動式ロケット弾と同様に、噴出口を傾けてジャイロ安定させた設計であったが、針路は安定せず、試験発射で浜側に戻ってくる始末であったという。
改良型は、先端部と水中部は船型とされた。佐々木さんの提案により先端部は船首のように波切りを取り付け、水中部はV字型である。水中部のV字は、先端部が狭角になっており、中部以降は広がられている。滑走効果を狙った形状だろう。
終戦直前に改良型が半潜水艇からの発射試験を行なっている。将官を前にした試験ではあったが、発射管口が斜めになって水上に飛び出しており、発射そのものに失敗したとのこと。簡易魚雷は推力に乏しく、上向き気味になると、自重を押し出すことができず、発射管から出ることができなかった。半潜水艇にある発射管には、圧搾空気や棒による押し出し機構が備えられていなかったことが伺える。
魚雷は高価な兵器である。今でも、対艦ミサイルよりも長魚雷が高いことはあまり知られていない。当時も、ジャイロによる針路保持や水深維持機構をもった魚雷は格別に高価であり、生産も容易ではない。※※ この点を解決するための簡易魚雷であったが、最後まで完成しなかった様子である。
「体当たりをするよりは」程度の簡易魚雷であれば、冷走魚雷がふさわしかったのではないか。冷走魚雷は、空気タンク(これも作るのが難しいが)に圧縮空気をいれて、その空気を吹き出し、タービンを廻してプロペラを駆動する初期魚雷である。誘導機構も省略する程度に短射程であれば、冷走が正解ではないか。それなりの高速力で、200mや300m程度は馳走する。㋹(◯レ)艇のように近接爆雷攻撃をするよりも数倍優れるだろう。
まず、半潜水艇や潜水艇なら、円材水雷でも体当たりよりは、命令する方も受ける方もマシなんだけれどもね。円材水雷(Spar torpedo)は、長い棒に爆薬をつけた極初期の魚雷であり、自走しない。伏龍隊員が手にしたアレを長くして、船から繰り出してぶつける兵器。明治海軍も初期に採用しており(公文書には、適当な棒、円材は各艦で調達しろとあった)しかし、戦争末期には顧みられていない。海軍軍事参議官で古株の爺様あたりは提案しなかったのかねえ。
※ 佐々木孝雄「旧陸軍舟艇の思い出」『船舶』(1980.11,天然社)pp64.-68.
※※ 日本製魚雷気室(酸素タンク)は、削り出しで作られていた。溶接でスパイラル・チューブ(クレラップやトイレットペーパーの芯と同じ構造)で作られた米魚雷に比較しても高価であり、大量生産は容易ではない。
推進力はロケットであって、ジャイロによる針路保持機構は持たない。
初期型は、魚雷と同じ形状にされた。旋動式ロケット弾と同様に、噴出口を傾けてジャイロ安定させた設計であったが、針路は安定せず、試験発射で浜側に戻ってくる始末であったという。
改良型は、先端部と水中部は船型とされた。佐々木さんの提案により先端部は船首のように波切りを取り付け、水中部はV字型である。水中部のV字は、先端部が狭角になっており、中部以降は広がられている。滑走効果を狙った形状だろう。
終戦直前に改良型が半潜水艇からの発射試験を行なっている。将官を前にした試験ではあったが、発射管口が斜めになって水上に飛び出しており、発射そのものに失敗したとのこと。簡易魚雷は推力に乏しく、上向き気味になると、自重を押し出すことができず、発射管から出ることができなかった。半潜水艇にある発射管には、圧搾空気や棒による押し出し機構が備えられていなかったことが伺える。
魚雷は高価な兵器である。今でも、対艦ミサイルよりも長魚雷が高いことはあまり知られていない。当時も、ジャイロによる針路保持や水深維持機構をもった魚雷は格別に高価であり、生産も容易ではない。※※ この点を解決するための簡易魚雷であったが、最後まで完成しなかった様子である。
「体当たりをするよりは」程度の簡易魚雷であれば、冷走魚雷がふさわしかったのではないか。冷走魚雷は、空気タンク(これも作るのが難しいが)に圧縮空気をいれて、その空気を吹き出し、タービンを廻してプロペラを駆動する初期魚雷である。誘導機構も省略する程度に短射程であれば、冷走が正解ではないか。それなりの高速力で、200mや300m程度は馳走する。㋹(◯レ)艇のように近接爆雷攻撃をするよりも数倍優れるだろう。
まず、半潜水艇や潜水艇なら、円材水雷でも体当たりよりは、命令する方も受ける方もマシなんだけれどもね。円材水雷(Spar torpedo)は、長い棒に爆薬をつけた極初期の魚雷であり、自走しない。伏龍隊員が手にしたアレを長くして、船から繰り出してぶつける兵器。明治海軍も初期に採用しており(公文書には、適当な棒、円材は各艦で調達しろとあった)しかし、戦争末期には顧みられていない。海軍軍事参議官で古株の爺様あたりは提案しなかったのかねえ。
※ 佐々木孝雄「旧陸軍舟艇の思い出」『船舶』(1980.11,天然社)pp64.-68.
※※ 日本製魚雷気室(酸素タンク)は、削り出しで作られていた。溶接でスパイラル・チューブ(クレラップやトイレットペーパーの芯と同じ構造)で作られた米魚雷に比較しても高価であり、大量生産は容易ではない。
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陸自装備を増強しろと主張する人が憲法上の制約を理由に挙げることが多い。「先制攻撃と敵地攻撃はできない、奇襲から始まる国内戦は必至だ、だから陸自増強をすべき」って主張をする人も多いけど。それって、ほんとに考えて発言しているのかと思うんだよね。それって、平和憲法に依拠しきった論理でしょう。これ、かつては国の自衛権を否定した論理と全く同じ構造ですよ。
もし、周辺国が対日上陸戦を準備をしたとしたら、日本は黙っていない。まあ、今日ある情勢で日本が他国から上陸戦を仕掛けられる可能性もないもんだけれども。仮にあったとしてさ、今日の日本は手を拱くことはないでしょう。先制攻撃も、敵地攻撃も、その時に手段として排除されるかは怪しいですね。
周辺国が日本に攻めこむ準備をしている、その状況が現れれば、例によって日本人は一晩で変わる。オウム真理教がガスを散布した後、村山首相は、警察に「別件逮捕でもいいからしょっ引け」と指示した。国民はその言葉に違和感を感じたものの、オウム関係者の一斉逮捕そのものは支持されている。日本人は、一夜で豹変するからね。「必要は法によって阻止されることはない」とか「必要は法を圧倒する、必要は法鎖を嘲笑する」ってやつ。
「憲法の制約で」という文言は、空虚化しています。かつて憲法により制約されるとも主張され、あるかどうか不明であった自衛権はすでに確固たる支持を受けている。さらに、自衛のために使われるはずの戦力で、日本国内でしか使えなかったはずの自衛隊は、すでに海外で活動している。海自はジプチに基地を設置して、インド洋やアデン湾で作戦活動をしている。陸自も空自もイラクに派遣された。この状況で「憲法の制約」を理由に、奇襲から始まる国内戦は必至として陸自装備を強化すべきという主張は、逆に平和憲法に依拠しきった論理でしょう。
実際に、日本本土への上陸戦が準備されているとなれば、日本も戦争準備を手際よくやるだろうね。今回の北朝鮮のロケット打ち上げ騒動でも、日本は手際よく準備したわけだ。その時になれば、戦力や物資を前進配置するとか、陣地構築に大きくもたつくことはありません。
その時に、先制攻撃や敵地攻撃が、手段として排除されることもないでしょう。敵船団が出てきたら、洋上で叩くことくらいしますよ。敵地攻撃は、装備がないので難しい部分もあるけれども、ASMやSSMを経度緯度で誘導して港湾や飛行場に嫌がらせ攻撃するくらいもするでしょう。
その状況において「憲法上の理由から敵が海を渡るのを待つ」なんて口にしたら間抜けでしょう。敵が領海に入ってから、陸に揚がってから陸上決戦を行う、なんてね。憲法上にある制約を根拠にしてさ「陸上決戦だけで勝利できるように」と平時は使えない膨大な陸上戦力が必要とするのもね。結局は無駄に防衛費を費やす結果になるだけだよ。
まあ、オススメは、攻勢機雷戦だけどね。根拠地港から外洋に出るまで、それなりに航路が収束する部分がある。内水でも領海でもいいんだけど、そこに機雷線を何本か引けば面白いことになるんじゃないの。
航空敷設なら、手段は戦闘機かね。敵地上空への侵入よりは容易でしょう。敵内水、領海といっても通り魔的に機雷を落とすだけです。その効果も持続する。哨戒機や輸送機、練習機や民間機を改造した特設航空機でも別に可能だけど、まあ落とされる可能性もあるのが難点か。
あるいは潜水艦で敷設してもよい。日本の潜水艦に敷設能力がないとか、適合する機雷がないとか言い出す人がいるかもしれない。でもね、魚雷発射管があればどんな潜水艦でも機雷は敷設できるのです。装填装置がないとか言い出す人もいるかもしれない。でも、棒を使って人力で発射管に押し込めばいいだけの話。適合する機雷がなくても大した問題はない。沈底感応機雷なら、缶体を直径533mm以下にすればおわり。繋維感応機雷が欲しいなら、適当な潜水艦敷設用の繋維機雷の缶体に、適した感応部を取り付ければ終わり。大した仕事でもありません。
もし、周辺国が対日上陸戦を準備をしたとしたら、日本は黙っていない。まあ、今日ある情勢で日本が他国から上陸戦を仕掛けられる可能性もないもんだけれども。仮にあったとしてさ、今日の日本は手を拱くことはないでしょう。先制攻撃も、敵地攻撃も、その時に手段として排除されるかは怪しいですね。
周辺国が日本に攻めこむ準備をしている、その状況が現れれば、例によって日本人は一晩で変わる。オウム真理教がガスを散布した後、村山首相は、警察に「別件逮捕でもいいからしょっ引け」と指示した。国民はその言葉に違和感を感じたものの、オウム関係者の一斉逮捕そのものは支持されている。日本人は、一夜で豹変するからね。「必要は法によって阻止されることはない」とか「必要は法を圧倒する、必要は法鎖を嘲笑する」ってやつ。
「憲法の制約で」という文言は、空虚化しています。かつて憲法により制約されるとも主張され、あるかどうか不明であった自衛権はすでに確固たる支持を受けている。さらに、自衛のために使われるはずの戦力で、日本国内でしか使えなかったはずの自衛隊は、すでに海外で活動している。海自はジプチに基地を設置して、インド洋やアデン湾で作戦活動をしている。陸自も空自もイラクに派遣された。この状況で「憲法の制約」を理由に、奇襲から始まる国内戦は必至として陸自装備を強化すべきという主張は、逆に平和憲法に依拠しきった論理でしょう。
実際に、日本本土への上陸戦が準備されているとなれば、日本も戦争準備を手際よくやるだろうね。今回の北朝鮮のロケット打ち上げ騒動でも、日本は手際よく準備したわけだ。その時になれば、戦力や物資を前進配置するとか、陣地構築に大きくもたつくことはありません。
その時に、先制攻撃や敵地攻撃が、手段として排除されることもないでしょう。敵船団が出てきたら、洋上で叩くことくらいしますよ。敵地攻撃は、装備がないので難しい部分もあるけれども、ASMやSSMを経度緯度で誘導して港湾や飛行場に嫌がらせ攻撃するくらいもするでしょう。
その状況において「憲法上の理由から敵が海を渡るのを待つ」なんて口にしたら間抜けでしょう。敵が領海に入ってから、陸に揚がってから陸上決戦を行う、なんてね。憲法上にある制約を根拠にしてさ「陸上決戦だけで勝利できるように」と平時は使えない膨大な陸上戦力が必要とするのもね。結局は無駄に防衛費を費やす結果になるだけだよ。
まあ、オススメは、攻勢機雷戦だけどね。根拠地港から外洋に出るまで、それなりに航路が収束する部分がある。内水でも領海でもいいんだけど、そこに機雷線を何本か引けば面白いことになるんじゃないの。
航空敷設なら、手段は戦闘機かね。敵地上空への侵入よりは容易でしょう。敵内水、領海といっても通り魔的に機雷を落とすだけです。その効果も持続する。哨戒機や輸送機、練習機や民間機を改造した特設航空機でも別に可能だけど、まあ落とされる可能性もあるのが難点か。
あるいは潜水艦で敷設してもよい。日本の潜水艦に敷設能力がないとか、適合する機雷がないとか言い出す人がいるかもしれない。でもね、魚雷発射管があればどんな潜水艦でも機雷は敷設できるのです。装填装置がないとか言い出す人もいるかもしれない。でも、棒を使って人力で発射管に押し込めばいいだけの話。適合する機雷がなくても大した問題はない。沈底感応機雷なら、缶体を直径533mm以下にすればおわり。繋維感応機雷が欲しいなら、適当な潜水艦敷設用の繋維機雷の缶体に、適した感応部を取り付ければ終わり。大した仕事でもありません。
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いまだに「ロシア海軍歩兵が日本に揚がってきたらどうする」みたいなコトを主張する御仁もおらっしゃる。いわく「海軍歩兵は強力装備を持っている」「上陸戦に対応できる」とのことである。本当に新型戦車が配備されているのか、高度なノウハウを持っているのかも疑問であるが、それはさておこう。まずそれ以前の話で、太宗である極東部での輸送能力や、ロシア艦隊戦力からすれば無理ゲー以外の何物でもない。
そして、ロシア極東部での防衛をどうするのかも問題である。上陸戦で海軍歩兵を使ってしまったら、ロシアは極東部で海上機動可能な予備戦力を失ってしまう。これでは、オホーツク以東の防衛に困難を伴う。
海軍歩兵は、極東部では攻勢に使うことは難しい。海軍歩兵を使ってしまうと、オホーツク海以東での沿岸防衛に差し支える。オホーツクやカムチャッカへの増援、逆上陸準備、港湾防備に穴が開いてしまう。
オホーツク海沿岸、カムチャッカは無人地帯である。アムール河口にあるニコライエフスク以東は、無人地帯と見て良い。カムチャッカ、千島列島、オホーツク沿岸、樺太北部には、補給限界を超えた1万人に満たない小都市がいくつかあるにすぎない。
無人地帯に配備される兵力も僅少である。補給限界を超えているため、大規模な兵力を配備できない。カムチャッカはロシア本土と陸地で連絡しているが、鉄道では繋がっていない。道路も悪路であり、輸送幹線とはならない。海運に頼るしかないのだが、そこにも制限がある。冬季には流氷により凍結し、夏も概ね濃霧である。低気圧の墓場でもあるため、船舶輸送も容易ではない。無人地帯で、まがりなりにも守備があるのは、樺太南部、北方領土、ペトロハバロフスク程度である。
無人地域に駐留している部隊は、貼り付けられた全滅予定部隊である。北方領土、ペトロハバロフスク守備部隊は、ロシア本土と事実上、連絡されていない。その島、港湾一点を守るだけの守備隊である。北方領土に配置された部隊は、それぞれの島を守るだけ。海で隔てられた千島列島各島まで機動する力はない。ペトロハバロフスクに配置された部隊も、港湾防備以外には何もできない。
冷戦期に米国は、オホーツク・アプローチを検討していた。カムチャッカ半島からオホーツク海は、米ソが直接対峙する正面である。そこには第三国がない。このため、第三国に属する領土や、その立場を考慮せず、存分に戦争できると考えていた。米国は、優越する海軍力により、カムチャッカ、サハリン、オホーツク湾底部への直接侵攻が可能であった。冷戦集結以降にロシア軍事力は大きく弱体化している。オホーツク・アプローチにある米優位は、今日さらに際立っているのである。
米国によるオホーツク海侵攻に対して、投入できる陸上戦力は、海軍歩兵しかない。無人地帯で機動的防備に使用でき、重装備を持つ戦力は、海軍歩兵しかないのである。太平洋艦隊が持つ海軍歩兵は、海上機動に習熟した陸上戦力である。※ オホーツク海での沿岸防衛、オホーツクやカムチャッカへの増援、生地への逆上陸のため、海軍歩兵は予備戦力の価値が高い。
仮に対日戦をやるとする。補給上にある限界、海軍力にある限界がないものとして、ソ連/ロシアが北海道に上陸するとしよう。
上陸第一波には、海軍歩兵を宛てるしかない。海軍歩兵が習熟した戦力であるというだけではない。ソ連/ロシアにあるセクショナリズム、政治的立場から、上陸第一波は、それを表芸にする海軍歩兵である必要も海軍にある。
しかし、ここで海軍歩兵を使ってしまうと、米軍がオホーツク侵攻を行ったとき、対抗できる予備戦力がなくなるというジレンマに陥る。同時に、極東への輸送力、海上輸送力、揚陸艦艇も北海道正面に張り付いてしまう。オホーツク方面は米軍のやりたい放題になる。
ロシアが対日戦をやるとすれば、海軍歩兵を始めとする海上機動戦力を充当しなければならない。しかし、それでも日本に勝てる見込みはない。日本は強力な海空軍力を持ち、輸送力に問題はなく、強力な工業生産能力を持ち、米国と同盟を組み、侵略を受ければ援助する友好国を多数擁している。わざわざ負ける為に上陸する行為で。
負け戦が決まった話に海軍歩兵を投入するほどの悪手はない。海軍歩兵が上陸を始めた段階で、オホーツク方面がフリーになってしまう。北海道で負けた上、オホーツク方面を失う、泣きっ面に蜂になる。
極東域では、ロシア海軍歩兵は貴重であって対日戦に投入するには敷居が高い。ロシア側による対日侵攻能力を検討する上で、海軍歩兵は注視すべきである。上陸戦に対応できる海軍歩兵は陸上戦力での筆頭になる。しかし、実際に対日戦に投入できるかどうかを判断する上では、また別個の問題もある。オホーツク以東は太平洋方面に開放されており、米軍は容易に侵攻することができる。海軍歩兵はその備えでもある。海軍歩兵は、極東部では攻勢に使うことは難しいことにも注目すべきである。
…まあ、駒としての海軍歩兵、兵員や戦車・装甲車・大砲に関しては、予備役動員や、ヨーロッパ方面各艦隊から陸路移動という手段もないではない。
しかし、海軍歩兵というシステム、揚陸戦用の装備(米英蘭に比べればおもちゃみたいなものだが)や、その背後にある揚陸艦は如何ともし難いね、ってとこだね。
※ 冷戦期、サハリンに所在した地上軍2ヶ師団が上陸戦機能を持っていると言われていた。これも今から見れば、北海道侵攻用ではなく、オホーツク海内での逆上陸、沿岸防衛等に備えたものだったとも考えられる。
そして、ロシア極東部での防衛をどうするのかも問題である。上陸戦で海軍歩兵を使ってしまったら、ロシアは極東部で海上機動可能な予備戦力を失ってしまう。これでは、オホーツク以東の防衛に困難を伴う。
海軍歩兵は、極東部では攻勢に使うことは難しい。海軍歩兵を使ってしまうと、オホーツク海以東での沿岸防衛に差し支える。オホーツクやカムチャッカへの増援、逆上陸準備、港湾防備に穴が開いてしまう。
オホーツク海沿岸、カムチャッカは無人地帯である。アムール河口にあるニコライエフスク以東は、無人地帯と見て良い。カムチャッカ、千島列島、オホーツク沿岸、樺太北部には、補給限界を超えた1万人に満たない小都市がいくつかあるにすぎない。
無人地帯に配備される兵力も僅少である。補給限界を超えているため、大規模な兵力を配備できない。カムチャッカはロシア本土と陸地で連絡しているが、鉄道では繋がっていない。道路も悪路であり、輸送幹線とはならない。海運に頼るしかないのだが、そこにも制限がある。冬季には流氷により凍結し、夏も概ね濃霧である。低気圧の墓場でもあるため、船舶輸送も容易ではない。無人地帯で、まがりなりにも守備があるのは、樺太南部、北方領土、ペトロハバロフスク程度である。
無人地域に駐留している部隊は、貼り付けられた全滅予定部隊である。北方領土、ペトロハバロフスク守備部隊は、ロシア本土と事実上、連絡されていない。その島、港湾一点を守るだけの守備隊である。北方領土に配置された部隊は、それぞれの島を守るだけ。海で隔てられた千島列島各島まで機動する力はない。ペトロハバロフスクに配置された部隊も、港湾防備以外には何もできない。
冷戦期に米国は、オホーツク・アプローチを検討していた。カムチャッカ半島からオホーツク海は、米ソが直接対峙する正面である。そこには第三国がない。このため、第三国に属する領土や、その立場を考慮せず、存分に戦争できると考えていた。米国は、優越する海軍力により、カムチャッカ、サハリン、オホーツク湾底部への直接侵攻が可能であった。冷戦集結以降にロシア軍事力は大きく弱体化している。オホーツク・アプローチにある米優位は、今日さらに際立っているのである。
米国によるオホーツク海侵攻に対して、投入できる陸上戦力は、海軍歩兵しかない。無人地帯で機動的防備に使用でき、重装備を持つ戦力は、海軍歩兵しかないのである。太平洋艦隊が持つ海軍歩兵は、海上機動に習熟した陸上戦力である。※ オホーツク海での沿岸防衛、オホーツクやカムチャッカへの増援、生地への逆上陸のため、海軍歩兵は予備戦力の価値が高い。
仮に対日戦をやるとする。補給上にある限界、海軍力にある限界がないものとして、ソ連/ロシアが北海道に上陸するとしよう。
上陸第一波には、海軍歩兵を宛てるしかない。海軍歩兵が習熟した戦力であるというだけではない。ソ連/ロシアにあるセクショナリズム、政治的立場から、上陸第一波は、それを表芸にする海軍歩兵である必要も海軍にある。
しかし、ここで海軍歩兵を使ってしまうと、米軍がオホーツク侵攻を行ったとき、対抗できる予備戦力がなくなるというジレンマに陥る。同時に、極東への輸送力、海上輸送力、揚陸艦艇も北海道正面に張り付いてしまう。オホーツク方面は米軍のやりたい放題になる。
ロシアが対日戦をやるとすれば、海軍歩兵を始めとする海上機動戦力を充当しなければならない。しかし、それでも日本に勝てる見込みはない。日本は強力な海空軍力を持ち、輸送力に問題はなく、強力な工業生産能力を持ち、米国と同盟を組み、侵略を受ければ援助する友好国を多数擁している。わざわざ負ける為に上陸する行為で。
負け戦が決まった話に海軍歩兵を投入するほどの悪手はない。海軍歩兵が上陸を始めた段階で、オホーツク方面がフリーになってしまう。北海道で負けた上、オホーツク方面を失う、泣きっ面に蜂になる。
極東域では、ロシア海軍歩兵は貴重であって対日戦に投入するには敷居が高い。ロシア側による対日侵攻能力を検討する上で、海軍歩兵は注視すべきである。上陸戦に対応できる海軍歩兵は陸上戦力での筆頭になる。しかし、実際に対日戦に投入できるかどうかを判断する上では、また別個の問題もある。オホーツク以東は太平洋方面に開放されており、米軍は容易に侵攻することができる。海軍歩兵はその備えでもある。海軍歩兵は、極東部では攻勢に使うことは難しいことにも注目すべきである。
…まあ、駒としての海軍歩兵、兵員や戦車・装甲車・大砲に関しては、予備役動員や、ヨーロッパ方面各艦隊から陸路移動という手段もないではない。
しかし、海軍歩兵というシステム、揚陸戦用の装備(米英蘭に比べればおもちゃみたいなものだが)や、その背後にある揚陸艦は如何ともし難いね、ってとこだね。
※ 冷戦期、サハリンに所在した地上軍2ヶ師団が上陸戦機能を持っていると言われていた。これも今から見れば、北海道侵攻用ではなく、オホーツク海内での逆上陸、沿岸防衛等に備えたものだったとも考えられる。
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米海軍が建造したLCS(沿岸戦闘艦)は、高い割に使い道に欠けるんじゃないかね。
プロシーディングスの最新版に、汎用水上戦闘艦を求める投稿が掲載されている。投稿者は、Schliseさんで、題はShooting for the Middle※である。ペリー級が果たしていたような役割を果たせる水上戦闘艦が必要であると訴える内容である。
投稿は、LCSは力不足とする前提である。SchliseさんはLCSそのものを否定してはいない。しかし、LCSはローエンドで多用される構想であるとしながらも、その上にミディアム・エンドが必要であると主張している。これは、LCSでは種々ある海軍作戦に力不足であると見做していることを示している。
また、SchliseさんはLCSでは能力不足である部分に焦点をあてている。具体的には防空戦と対水上戦機能である。また、対地攻撃に関する重要性も指摘している。
そして、退役しつつあるペリー級を高く評価している。ペリー級は明確にローエンドであったが、LCSにはない強力な対空戦闘能力を持ち、それなりの対水上戦能力を保有していた。
投稿から伺えるのは、LCSを評価しない姿勢である。なにより、CSよりも古いペリー級を評価し、ペリー級後継となるミディアム・エンドを必要と主張している。これは、LCSへの不満足を示すものである。
LCSは満足できる艦艇ではないのだろう。
LCSにできることは中途半端である。LCSは特に哨戒、対機雷戦、特殊部隊潜入が任務として挙げられている。しかし、哨戒はヘリを搭載する艦艇であれば新旧を問わず遂行可能である。対機雷戦は、LCSでできることは限られる。いろいろギミックを考えているようだが、限界がある。専門とする掃討艇には劣る。極低速で自由に移動でき、対機雷専用ソーナー運用を前提にした掃討艇には太刀打ちできない。特殊部隊潜入はステルス性を活かそうとするものである。だが、ステルス性であればLCSは潜水艦に劣る。高速力にしても、ヘリには到底かなわない。
その上、LCSは高くて数も揃わない。建造費用、運用経費とも高価である。45kt以上と、無駄に高速力を追求したため、機関は大きくなった。当然、建造費用も運用経費も高くなった。
そして、LCS以前のペリー級よりも、防空戦と対水上戦に劣っているのである。
LCSを評価しない姿勢は、投稿中にある私案でも明らかである。私案としてミディアム・エンドへの要求項目が挙げられている。項目を逐一あげるものではない。だが、そこで高速力は要求されていない点は注視すべきである。ミディアム・エンドに必要な最高速力は「28kt+」とされている。これはLCSが達成した45kt+への皮肉である。
まあ、LCSで何ができるか。その値段と比較すると否定的にもなるでしょうね。しかも、価格高騰で数が揃うかもわからない。運用には経費を要する割には、LCSでなければならない要素もない。実際、ペリー級のほうがマシなんだろう。まずは、LCSはお荷物になっているんじゃないかな。
※Schlise,Chuck Shooting for the Middle(Proceedings,2012.4)p.p.64-67
プロシーディングスの最新版に、汎用水上戦闘艦を求める投稿が掲載されている。投稿者は、Schliseさんで、題はShooting for the Middle※である。ペリー級が果たしていたような役割を果たせる水上戦闘艦が必要であると訴える内容である。
投稿は、LCSは力不足とする前提である。SchliseさんはLCSそのものを否定してはいない。しかし、LCSはローエンドで多用される構想であるとしながらも、その上にミディアム・エンドが必要であると主張している。これは、LCSでは種々ある海軍作戦に力不足であると見做していることを示している。
また、SchliseさんはLCSでは能力不足である部分に焦点をあてている。具体的には防空戦と対水上戦機能である。また、対地攻撃に関する重要性も指摘している。
そして、退役しつつあるペリー級を高く評価している。ペリー級は明確にローエンドであったが、LCSにはない強力な対空戦闘能力を持ち、それなりの対水上戦能力を保有していた。
投稿から伺えるのは、LCSを評価しない姿勢である。なにより、CSよりも古いペリー級を評価し、ペリー級後継となるミディアム・エンドを必要と主張している。これは、LCSへの不満足を示すものである。
LCSは満足できる艦艇ではないのだろう。
LCSにできることは中途半端である。LCSは特に哨戒、対機雷戦、特殊部隊潜入が任務として挙げられている。しかし、哨戒はヘリを搭載する艦艇であれば新旧を問わず遂行可能である。対機雷戦は、LCSでできることは限られる。いろいろギミックを考えているようだが、限界がある。専門とする掃討艇には劣る。極低速で自由に移動でき、対機雷専用ソーナー運用を前提にした掃討艇には太刀打ちできない。特殊部隊潜入はステルス性を活かそうとするものである。だが、ステルス性であればLCSは潜水艦に劣る。高速力にしても、ヘリには到底かなわない。
その上、LCSは高くて数も揃わない。建造費用、運用経費とも高価である。45kt以上と、無駄に高速力を追求したため、機関は大きくなった。当然、建造費用も運用経費も高くなった。
そして、LCS以前のペリー級よりも、防空戦と対水上戦に劣っているのである。
LCSを評価しない姿勢は、投稿中にある私案でも明らかである。私案としてミディアム・エンドへの要求項目が挙げられている。項目を逐一あげるものではない。だが、そこで高速力は要求されていない点は注視すべきである。ミディアム・エンドに必要な最高速力は「28kt+」とされている。これはLCSが達成した45kt+への皮肉である。
まあ、LCSで何ができるか。その値段と比較すると否定的にもなるでしょうね。しかも、価格高騰で数が揃うかもわからない。運用には経費を要する割には、LCSでなければならない要素もない。実際、ペリー級のほうがマシなんだろう。まずは、LCSはお荷物になっているんじゃないかな。
※Schlise,Chuck Shooting for the Middle(Proceedings,2012.4)p.p.64-67
Category : ミリタリー
ここ10年あまり、陸自は離島防衛に積極的である。杞憂に近い本土への着上陸に比べ、離島防衛はリアルな問題である。実際に、着上陸の脅威を訴えても陸自は生き残ることはできない。対して、離島防衛は必要性をアピールしやすい。日本本土での大規模陸戦への準備に予算を投じるよりも、よほど健全である。
しかし、離島防衛でも、あまり陸自は出番がない。離島防衛も結局は海空主体である。陸自全体の存在価値を示せるほどの任務ではない。あまり陸自には出番はない。
島嶼は、陸上戦力だけでは保持できない。実際に、太平洋戦争で陸軍による離島防衛で成功した試しもない。日本が海戦で敗退し、海軍力が後退した後に取り残された島は、攻略されれば陥落している。なるほど、硫黄島で米海兵隊に大損害を与えた例もあるが、結局は陥落している。
海戦空戦で負けたあとに、陸戦で云々しても始まらない。離島も本土での戦闘もそうだけれども、戦闘で多少勝利したとしても、海空で閉塞されたら戦争には勝てない。陸上戦力で上陸部隊を撃破できると豪語したところで、敵が上陸しなければ始まらない。逆に勝ち目があっても、海上封鎖されてしまえば、そのうち餓え死にしてしまう。
離島防衛で必要な陸上戦力は、比較的小規模にとどまる。大戦力をおいても海空戦で敗北すれば無意味である。逆に海空戦で勝利すれば、陸上戦力は小規模でよい。兵力の真空地帯を作らない、少数に限定される潜搬入を阻止できる程度で充分ということだ。
島嶼防衛での陸自所要は、歩兵主体で中隊・大隊にすぎない。具体的には、一つの島に中隊程度、大きくても大隊規模である。仮に師団規模の戦力をおいて、築城をしても、海空戦力が敗退すれば、結局は島嶼は保持できない。硫黄島のように伝説だけを作って終わりになる。そもそも、スキップされたら意味もないわけだ。
もちろん、取られたら本当に困るような島であれば、大規模戦力を展開してもよい。戦争中の内南洋、サイパンやグアム、沖縄本島のように死活的な価値をもつ島なら、陸上戦力を注ぎ込んでもよい。しかし、今の日本にとって、そのような島は沖縄本島程度しかない。しかし、それ以外の島には、戦争になっても大挙して侵攻してくるものでもない。とりあえず配置しました程度が妥当だろう。
離島防衛の主体は、結局は海空戦力である。それほど陸自には出番はない。空白地帯を作らないこと、警戒・警備程度ができれば充分である。あとは、沿岸砲兵的に、SSMでも置けば、そこそこの拒否水面を設定できるかも知れない。(もちろん、迂回されたら終わりになる)
陸自が離島防衛に積極的であることは、健全である。本土着上陸に備えることに比べれば、よほど有意義である。
しかし、離島防衛だけでは、陸自を生き残らせるアピールにはならない。陸自が今ある予算、人員、器材を維持するためには、やはり別の任務を前に出さなければならない。おそらく、それは「国際貢献」である。はっきり言えば、外征への準備と、実績となるだろう。
しかし、離島防衛でも、あまり陸自は出番がない。離島防衛も結局は海空主体である。陸自全体の存在価値を示せるほどの任務ではない。あまり陸自には出番はない。
島嶼は、陸上戦力だけでは保持できない。実際に、太平洋戦争で陸軍による離島防衛で成功した試しもない。日本が海戦で敗退し、海軍力が後退した後に取り残された島は、攻略されれば陥落している。なるほど、硫黄島で米海兵隊に大損害を与えた例もあるが、結局は陥落している。
海戦空戦で負けたあとに、陸戦で云々しても始まらない。離島も本土での戦闘もそうだけれども、戦闘で多少勝利したとしても、海空で閉塞されたら戦争には勝てない。陸上戦力で上陸部隊を撃破できると豪語したところで、敵が上陸しなければ始まらない。逆に勝ち目があっても、海上封鎖されてしまえば、そのうち餓え死にしてしまう。
離島防衛で必要な陸上戦力は、比較的小規模にとどまる。大戦力をおいても海空戦で敗北すれば無意味である。逆に海空戦で勝利すれば、陸上戦力は小規模でよい。兵力の真空地帯を作らない、少数に限定される潜搬入を阻止できる程度で充分ということだ。
島嶼防衛での陸自所要は、歩兵主体で中隊・大隊にすぎない。具体的には、一つの島に中隊程度、大きくても大隊規模である。仮に師団規模の戦力をおいて、築城をしても、海空戦力が敗退すれば、結局は島嶼は保持できない。硫黄島のように伝説だけを作って終わりになる。そもそも、スキップされたら意味もないわけだ。
もちろん、取られたら本当に困るような島であれば、大規模戦力を展開してもよい。戦争中の内南洋、サイパンやグアム、沖縄本島のように死活的な価値をもつ島なら、陸上戦力を注ぎ込んでもよい。しかし、今の日本にとって、そのような島は沖縄本島程度しかない。しかし、それ以外の島には、戦争になっても大挙して侵攻してくるものでもない。とりあえず配置しました程度が妥当だろう。
離島防衛の主体は、結局は海空戦力である。それほど陸自には出番はない。空白地帯を作らないこと、警戒・警備程度ができれば充分である。あとは、沿岸砲兵的に、SSMでも置けば、そこそこの拒否水面を設定できるかも知れない。(もちろん、迂回されたら終わりになる)
陸自が離島防衛に積極的であることは、健全である。本土着上陸に備えることに比べれば、よほど有意義である。
しかし、離島防衛だけでは、陸自を生き残らせるアピールにはならない。陸自が今ある予算、人員、器材を維持するためには、やはり別の任務を前に出さなければならない。おそらく、それは「国際貢献」である。はっきり言えば、外征への準備と、実績となるだろう。
Category : ミリタリー
付け加えれば、あとはセイコーかな。今、ソニーはエライ目にあっているけどね。
旧日本軍は、占領地では、軍票で支払とした。別に「円で支払いをした」と考えてもよい。
しかし、支払いを受けた占領地市民は、それで何も買えない。昭和15年の2600年記念行事で椀飯振舞してから、日本にはモノがない。戦時体制で民需は圧迫されている。占領地に輸出できるような雑貨はない。わずかにあっても粗悪品にすぎない。
これは、冷戦期に日本がソ連に占領された状態をイメージすれば、理解しやすい。当時の極東ソ連にそのような力はないのだが。たとえ話として考えて欲しい。
日本がソ連に占領されたとする。ソ連軍が軍票を乱発する。市民の自動車、仮にトヨタのクラウン、ニコンF3(ソ連時代だから)を強制買付される。一応、日本円換算額よりも、公定レートよりも高いルーブルが支払われる。
しかし、ソ連の軍票では、何も買えない。
ソ連軍にクラウンを取られる。代価の軍票で買えるのが、東独のトラバント(実際に日本まで運ぶ余力もないだろうが)では納得しないだろう。ソ連軍にF3を取られて、その支払いで買えるのが、コンタックスコピーのキエフでは、腹も立つ。
買付けに対して売り惜しみもしようというものだ。
これが、日本占領地の軍票経済、民政である。軍票と引き換えられる、輸出商品が日本には無かった。 実際に、日本から占領地に向かう貨物船に積むものは、軍需品や日本向け移送資源採掘用のプラントである。
実際に、日本軍票の価値裏付は、日本から移出した貴金属や、特別円(借款)による信用しかない。雑貨品は日本から輸出する余力はない。せいぜい現地で鍋釜・剃刀・石鹸の類を作り、それを軍票引き換えで売る。または専売物品として、煙草・酒・塩・樟脳・あるいは阿片を売るのが関の山である。
日本にとって痛いのが、羨望の的の日本製商品、キラーコンテンツ?がないことである。当時、日本に魅力的な製品があれば、軍票経済という面で、占領地経営は随分うまくいっただろう。ホンダのカブ、ソニーのトランジスタラジオ、あとはセイコーの高品質腕時計でもあれば随分円滑な民生運営ができたはずだ。(全部、歴史のフライングだけど)
占領地の人々が欲しがるような雑貨品でもあればね。当時の現実からして、少なくとも自転車とか医薬品とか映画等の娯楽、衣類装身具、威信財を輸出する能力があれば、軍票と民生安定の兼ね合いは取れたかもしれない。
しかし、当時の軍国日本、国家総動員体制では、それらの製品は逼迫しており、充分な数の輸出はできなかったのである。 だから、日本の軍票には売り惜しみがみられた。
日本軍は好感情で迎えられなかった理由は、軍票で巻き上げたことも一因である。その軍票で何も買えないことが原因である。
そして、対して、アメリカは何でも持っていたわけだ。大はエアコンや自動車、ありがたいのは抗生物質、さらに小はコーラやチューインガムまで、魅力的な品揃えがあった。米軍にも粗暴な振る舞いをする兵隊がいたが、軍票やドルに信用があった。だから嫌われるにしても、それほど極端でもなかったのだろう。
2006年06月26日MIXI日記より
旧日本軍は、占領地では、軍票で支払とした。別に「円で支払いをした」と考えてもよい。
しかし、支払いを受けた占領地市民は、それで何も買えない。昭和15年の2600年記念行事で椀飯振舞してから、日本にはモノがない。戦時体制で民需は圧迫されている。占領地に輸出できるような雑貨はない。わずかにあっても粗悪品にすぎない。
これは、冷戦期に日本がソ連に占領された状態をイメージすれば、理解しやすい。当時の極東ソ連にそのような力はないのだが。たとえ話として考えて欲しい。
日本がソ連に占領されたとする。ソ連軍が軍票を乱発する。市民の自動車、仮にトヨタのクラウン、ニコンF3(ソ連時代だから)を強制買付される。一応、日本円換算額よりも、公定レートよりも高いルーブルが支払われる。
しかし、ソ連の軍票では、何も買えない。
ソ連軍にクラウンを取られる。代価の軍票で買えるのが、東独のトラバント(実際に日本まで運ぶ余力もないだろうが)では納得しないだろう。ソ連軍にF3を取られて、その支払いで買えるのが、コンタックスコピーのキエフでは、腹も立つ。
買付けに対して売り惜しみもしようというものだ。
これが、日本占領地の軍票経済、民政である。軍票と引き換えられる、輸出商品が日本には無かった。 実際に、日本から占領地に向かう貨物船に積むものは、軍需品や日本向け移送資源採掘用のプラントである。
実際に、日本軍票の価値裏付は、日本から移出した貴金属や、特別円(借款)による信用しかない。雑貨品は日本から輸出する余力はない。せいぜい現地で鍋釜・剃刀・石鹸の類を作り、それを軍票引き換えで売る。または専売物品として、煙草・酒・塩・樟脳・あるいは阿片を売るのが関の山である。
日本にとって痛いのが、羨望の的の日本製商品、キラーコンテンツ?がないことである。当時、日本に魅力的な製品があれば、軍票経済という面で、占領地経営は随分うまくいっただろう。ホンダのカブ、ソニーのトランジスタラジオ、あとはセイコーの高品質腕時計でもあれば随分円滑な民生運営ができたはずだ。(全部、歴史のフライングだけど)
占領地の人々が欲しがるような雑貨品でもあればね。当時の現実からして、少なくとも自転車とか医薬品とか映画等の娯楽、衣類装身具、威信財を輸出する能力があれば、軍票と民生安定の兼ね合いは取れたかもしれない。
しかし、当時の軍国日本、国家総動員体制では、それらの製品は逼迫しており、充分な数の輸出はできなかったのである。 だから、日本の軍票には売り惜しみがみられた。
日本軍は好感情で迎えられなかった理由は、軍票で巻き上げたことも一因である。その軍票で何も買えないことが原因である。
そして、対して、アメリカは何でも持っていたわけだ。大はエアコンや自動車、ありがたいのは抗生物質、さらに小はコーラやチューインガムまで、魅力的な品揃えがあった。米軍にも粗暴な振る舞いをする兵隊がいたが、軍票やドルに信用があった。だから嫌われるにしても、それほど極端でもなかったのだろう。
2006年06月26日MIXI日記より
Category : アニメ評
岩波ホールで『劇場版ストライクウィッチーズ 音速雷撃隊 ノーカット版』を観てきました。
初回公開版ではオミットされた「本当は月に行くため」「キチガイだ」が原作通りになったノーカット版です。世評でも、予告編でも断片的に流された、芳佳がロケットを一気に全点火していくカット以降が賞賛、あるいは批判されております。しかし、初回公開版ではハサミが入れられた、男を買うエピソード復活も評価すべきでしょう。坂本少佐が帯同していた情夫をみんなに宛てがうエピソードですが、なんとも素晴らしい。
第一回攻撃の失敗後、坂本少佐は、情夫を幼い部下に宛てがいます。TV版と同様に、坂本少佐は情夫である圭助を従兵に仕立てて戦地も連れて歩いています。それを男を知らない、幼い部下たちを気の毒がって抱かせます。抱かせることによって「生き抜けばいいことがある」と動機づける、中盤での山場のシーンです。
話や筋ならエロですが、肝心のいくつかのカットには声だけです。演出としては、その場のカットを描くよりも声だけにとどめた点は評価すべきでしょう。絵を入れると、原作者である伊藤桂一が描きたかったものから離れてしまい、あるいは成年指定も絡んでしまう。BD版に期待するか、あるいは薄いマンガで補間するかといったあたりです。
なによりも、シャーロットですね。男を抱く前に、シャーロットはが芳佳に自慢気に話します。「あたしはもう男を知っている」「あんなもんは何遍やったておんなじさ」「ものすごくつまらないもんだよ」と強がります。しかし、慰安所「第二ふさう楼」を開く、その直前に戦闘が始まる。そして、一躍、飛び上がったシャーロットが還ってこない…
お弔いのあと後、みんなは順番に男を抱きます。順番待ちでそわそわする子、終わってニヤニヤしながら出てくる子、色々います。その中で、一番最初に男を抱いた芳佳が泣いている。
坂本が「そんなに痛かったのか?」と訪ねますが、芳佳の鳴き声は大きくなるばかり。ようやく「シャーロットのことです」と。「『男を知っているのは私だけ』だと」「でも、◯◯◯は、そうなっていませんでした」「シャーロットはみんなを楽しませようと下手な芝居で」と小さく、声も切れ切れに訴えるのですが、最後に「あの子は何も知らずに死んじまった」と慟哭するのです。
その後の、出撃前の宴会、無礼講。坂本は「シャーロットは幾つか、16だ、フランチェスカもまだ12だった、わずか20年も生きられなかった、悲しい弔いでは寂しすぎる」からの大宴会。
そして、突然の爆撃。「偵察機が駄賃で落としていった」「100ポンドの取るに足らない爆弾」と宴会は続きますが、弾着地には、乗用車に燃料搭載していた圭助がいた。
翌日の攻撃前、白服が汚れるのも厭わず、黒焦げの燃え残りを抱きかかえる坂本。「なんですがそのケシズミ」と芳佳が尋ねると「圭助だよ」「しばらく一人にしてくれ」と答える坂本。その表情は、喜怒哀楽何れでもなく、彫像のように感情が残っていない。
TV版や予告編では、坂本少佐の行動にはやや突飛なものがありました。脚の短い紫電改でありながら、増槽を落としてからも帰らない。これは、普段の「生き抜け」「プロペラが回る間は何があっても飛べ」「プロペラが止まったら手で掻いても飛べ」と指導する坂本のポリシーと異なるからです。
しかし、ケシズミを抱く坂本のカットが挿入されることにより、物語としてのリアリティは破綻なく処理されたと云うべきでしょう。坂本には帰るところがなくなったのです。その行動も、復讐のためではなく、芳佳と搭乗機を守るため、音速を超えること、そしていつか月に行くことを望んだシャーロット最後の「作品」を飛ばすためであることが明らかになっています。
劇場版は、TV版で描ききれなかった部分、心情が明確になっており、素晴らしい作品に仕上がったと言えるでしょう。物語としてのリアリティで残念だった部分も、綺麗に詰められています。エロのシーンはありませんが、それはBD版を楽しみとして、いま見ておくべきでしょう。
ま、欝展開ばかりでもないのですよ。男を抱くシーンでも、坂本の「このなかで、処女のものは挙手」で、アンナ・フェラーラが手を上げる。「なんだお前もか」で「いえ、自分はみんなが手を挙げたので、何かと…」とかね。「怖がることはない、親父さんの◯◯◯見たことあるだろ」で「自分の親爺は90でして、その、もう」は笑えるところです。
初回公開版である『ストライクウィッチーズ 音速雷撃隊』で改悪された部分が全部復元した感じですね。意図的に抜かれた「いつかは月に行く」「味方もキチガイだ」を元に戻し、同じように製作総指揮による「非実在であっても許されない」とハサミが入った部分「第二ふさう楼」も原作通りとなりました。政治的なバイアスが取り払われたところで、原作(伊藤桂一『ストライクウィッチーズ 悲しき戦記』収録)の物語が本来の輝きを取り戻したところでしょうか。
岩波ホールは骨太の作品が好きですからね。次回作『オレンジと太陽』も楽しみなものです。1970年代まで秘されたまま続いた、オーストラリアへの児童移民に光を当てる作品です。やはり見なければならないでしょう。
参考 岡本喜八監督『血と砂』(東宝、1965年)
音楽で戦争が終わるのはマクロスだけで充分
【ネタバレ】『アイドルマスター』最終話『洲崎炎上』
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かわいそうなしゃち
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初回公開版ではオミットされた「本当は月に行くため」「キチガイだ」が原作通りになったノーカット版です。世評でも、予告編でも断片的に流された、芳佳がロケットを一気に全点火していくカット以降が賞賛、あるいは批判されております。しかし、初回公開版ではハサミが入れられた、男を買うエピソード復活も評価すべきでしょう。坂本少佐が帯同していた情夫をみんなに宛てがうエピソードですが、なんとも素晴らしい。
第一回攻撃の失敗後、坂本少佐は、情夫を幼い部下に宛てがいます。TV版と同様に、坂本少佐は情夫である圭助を従兵に仕立てて戦地も連れて歩いています。それを男を知らない、幼い部下たちを気の毒がって抱かせます。抱かせることによって「生き抜けばいいことがある」と動機づける、中盤での山場のシーンです。
話や筋ならエロですが、肝心のいくつかのカットには声だけです。演出としては、その場のカットを描くよりも声だけにとどめた点は評価すべきでしょう。絵を入れると、原作者である伊藤桂一が描きたかったものから離れてしまい、あるいは成年指定も絡んでしまう。BD版に期待するか、あるいは薄いマンガで補間するかといったあたりです。
なによりも、シャーロットですね。男を抱く前に、シャーロットはが芳佳に自慢気に話します。「あたしはもう男を知っている」「あんなもんは何遍やったておんなじさ」「ものすごくつまらないもんだよ」と強がります。しかし、慰安所「第二ふさう楼」を開く、その直前に戦闘が始まる。そして、一躍、飛び上がったシャーロットが還ってこない…
お弔いのあと後、みんなは順番に男を抱きます。順番待ちでそわそわする子、終わってニヤニヤしながら出てくる子、色々います。その中で、一番最初に男を抱いた芳佳が泣いている。
坂本が「そんなに痛かったのか?」と訪ねますが、芳佳の鳴き声は大きくなるばかり。ようやく「シャーロットのことです」と。「『男を知っているのは私だけ』だと」「でも、◯◯◯は、そうなっていませんでした」「シャーロットはみんなを楽しませようと下手な芝居で」と小さく、声も切れ切れに訴えるのですが、最後に「あの子は何も知らずに死んじまった」と慟哭するのです。
その後の、出撃前の宴会、無礼講。坂本は「シャーロットは幾つか、16だ、フランチェスカもまだ12だった、わずか20年も生きられなかった、悲しい弔いでは寂しすぎる」からの大宴会。
そして、突然の爆撃。「偵察機が駄賃で落としていった」「100ポンドの取るに足らない爆弾」と宴会は続きますが、弾着地には、乗用車に燃料搭載していた圭助がいた。
翌日の攻撃前、白服が汚れるのも厭わず、黒焦げの燃え残りを抱きかかえる坂本。「なんですがそのケシズミ」と芳佳が尋ねると「圭助だよ」「しばらく一人にしてくれ」と答える坂本。その表情は、喜怒哀楽何れでもなく、彫像のように感情が残っていない。
TV版や予告編では、坂本少佐の行動にはやや突飛なものがありました。脚の短い紫電改でありながら、増槽を落としてからも帰らない。これは、普段の「生き抜け」「プロペラが回る間は何があっても飛べ」「プロペラが止まったら手で掻いても飛べ」と指導する坂本のポリシーと異なるからです。
しかし、ケシズミを抱く坂本のカットが挿入されることにより、物語としてのリアリティは破綻なく処理されたと云うべきでしょう。坂本には帰るところがなくなったのです。その行動も、復讐のためではなく、芳佳と搭乗機を守るため、音速を超えること、そしていつか月に行くことを望んだシャーロット最後の「作品」を飛ばすためであることが明らかになっています。
劇場版は、TV版で描ききれなかった部分、心情が明確になっており、素晴らしい作品に仕上がったと言えるでしょう。物語としてのリアリティで残念だった部分も、綺麗に詰められています。エロのシーンはありませんが、それはBD版を楽しみとして、いま見ておくべきでしょう。
ま、欝展開ばかりでもないのですよ。男を抱くシーンでも、坂本の「このなかで、処女のものは挙手」で、アンナ・フェラーラが手を上げる。「なんだお前もか」で「いえ、自分はみんなが手を挙げたので、何かと…」とかね。「怖がることはない、親父さんの◯◯◯見たことあるだろ」で「自分の親爺は90でして、その、もう」は笑えるところです。
初回公開版である『ストライクウィッチーズ 音速雷撃隊』で改悪された部分が全部復元した感じですね。意図的に抜かれた「いつかは月に行く」「味方もキチガイだ」を元に戻し、同じように製作総指揮による「非実在であっても許されない」とハサミが入った部分「第二ふさう楼」も原作通りとなりました。政治的なバイアスが取り払われたところで、原作(伊藤桂一『ストライクウィッチーズ 悲しき戦記』収録)の物語が本来の輝きを取り戻したところでしょうか。
岩波ホールは骨太の作品が好きですからね。次回作『オレンジと太陽』も楽しみなものです。1970年代まで秘されたまま続いた、オーストラリアへの児童移民に光を当てる作品です。やはり見なければならないでしょう。
参考 岡本喜八監督『血と砂』(東宝、1965年)
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米軍住宅では暖房に蒸気を利用している。本当の意味のセントラル・ヒーティングで、基地ボイラから蒸気を地下配管で送っている。
昔、作った蒸気ピッドが時折発見されることがある。別府で、謎の地下道が発見されたとするニュースがあった※が、サイズから明らかに送汽用の地下ピットである。米軍基地や住宅後には地下ピットが残っている。旧軍等防空壕は県費をつかいエアーモルタル等で埋め戻すが、米軍設備は対象外である。米軍は埋め戻すような面倒はやらないので、そのままにされている。
そして、今でも米軍住宅は蒸気暖房を設置している。東北で新築される米軍住宅(一戸建て)にも、各戸に蒸気配管を敷いていた。
この蒸気使用実績だが、日本側は米側提供量がまとめて知らされるだけである。基地用と住宅用は区別なく、合計熱量がBTUで知らされるだけである。
案外、住宅用の熱源使用料を追求されないために蒸気を使い続けているんじゃないかね。
米軍住宅の設備使用料、電気・ガス・水道は思いやり予算で支払われている。このため、遣い放題になってしまう。電気・ガス・水道は戸メータや団地単位でのメータもある。遣い放題は捕捉されやすい。思いやり予算で実施する上乗せ部分は、日本側も厳しい目で見ている。「思いやり」をする必要を認める人々も、保守側であっても、無駄遣いには厳しい。実際に「無駄遣いを認めたわけではない」と、保守側からも問題にされる。
熱源も、思いやり予算の対象である。ここで、熱源として電気やガスを使っていると、戸メータや、団地全体のメータで捕捉される。その結果、無駄遣いを責められる可能性もある。
しかし、蒸気を熱源とすれば、日本側から補足されない。蒸気には、戸メータなしとする実績もあるため、補足されない。しかも、住宅分と基地分を混ぜあわせれば、さらに目立たなくなる。基地蒸気所要は膨大である。艦船向け蒸気供給や、格納庫暖房(蒸気を使った輻射パネル)に混ぜてしまえば、米軍住宅分は完全に紛れてしまう。
日米担当者とも、結構細かい。彼らレベルのリスクには敏感である。米側は権利を守る気満々である。彼らの人事評価基準は、米側権益の保護である。日本側はとにかく波風立てたくない。官僚としての習性がある。思いやり予算の設備使用料を守りたい/波風立てたくないという点では利害が一致する。そうするには、眼につかないようにするのが一番である。
米軍住宅が熱源として蒸気を選択している。これは、案外に意図的な選択の結果ではないかな。
米側が慎ましく、遠慮して使う分には、日本人もあまり問題にしないと思うんだよね。でも、電気ガス水道、高速道路代そのほかで、堂々と無駄遣いされると日本人も不快になるよねえ。
似た様なものとして、山王ホテルとか基地内ゴルフ場とか基地内クレー射撃場とか、そろそろ整理する時期じゃないのかね。
昔、作った蒸気ピッドが時折発見されることがある。別府で、謎の地下道が発見されたとするニュースがあった※が、サイズから明らかに送汽用の地下ピットである。米軍基地や住宅後には地下ピットが残っている。旧軍等防空壕は県費をつかいエアーモルタル等で埋め戻すが、米軍設備は対象外である。米軍は埋め戻すような面倒はやらないので、そのままにされている。
そして、今でも米軍住宅は蒸気暖房を設置している。東北で新築される米軍住宅(一戸建て)にも、各戸に蒸気配管を敷いていた。
この蒸気使用実績だが、日本側は米側提供量がまとめて知らされるだけである。基地用と住宅用は区別なく、合計熱量がBTUで知らされるだけである。
案外、住宅用の熱源使用料を追求されないために蒸気を使い続けているんじゃないかね。
米軍住宅の設備使用料、電気・ガス・水道は思いやり予算で支払われている。このため、遣い放題になってしまう。電気・ガス・水道は戸メータや団地単位でのメータもある。遣い放題は捕捉されやすい。思いやり予算で実施する上乗せ部分は、日本側も厳しい目で見ている。「思いやり」をする必要を認める人々も、保守側であっても、無駄遣いには厳しい。実際に「無駄遣いを認めたわけではない」と、保守側からも問題にされる。
熱源も、思いやり予算の対象である。ここで、熱源として電気やガスを使っていると、戸メータや、団地全体のメータで捕捉される。その結果、無駄遣いを責められる可能性もある。
しかし、蒸気を熱源とすれば、日本側から補足されない。蒸気には、戸メータなしとする実績もあるため、補足されない。しかも、住宅分と基地分を混ぜあわせれば、さらに目立たなくなる。基地蒸気所要は膨大である。艦船向け蒸気供給や、格納庫暖房(蒸気を使った輻射パネル)に混ぜてしまえば、米軍住宅分は完全に紛れてしまう。
日米担当者とも、結構細かい。彼らレベルのリスクには敏感である。米側は権利を守る気満々である。彼らの人事評価基準は、米側権益の保護である。日本側はとにかく波風立てたくない。官僚としての習性がある。思いやり予算の設備使用料を守りたい/波風立てたくないという点では利害が一致する。そうするには、眼につかないようにするのが一番である。
米軍住宅が熱源として蒸気を選択している。これは、案外に意図的な選択の結果ではないかな。
米側が慎ましく、遠慮して使う分には、日本人もあまり問題にしないと思うんだよね。でも、電気ガス水道、高速道路代そのほかで、堂々と無駄遣いされると日本人も不快になるよねえ。
似た様なものとして、山王ホテルとか基地内ゴルフ場とか基地内クレー射撃場とか、そろそろ整理する時期じゃないのかね。
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