Category : 有職故実
桜林美佐さんの『オスプレイ導入で日本の安全保障はどう変わるのか』では、数字的に奇妙な説明がある。記事中に「開発、訓練で200人以上が死亡した『零戦』」という章立てがある。その中で「1941(昭和16)年の1年間で、海軍だけで200人を超えるパイロットが事故で殉職している」と述べている。
しかし、開戦時に200人殉職できるまで零戦は生産していない。ウィキペディア零戦の項目にはを見ると生産数がある。昭和16年開戦まで生産できた零戦は合計430機程度に過ぎない。そして、緒戦に投入された零戦は空母主力6隻分で120機程度、南方作戦に投入された基地航空隊は、台南空ほか3個隊で最大200機程度。墜落・全損する余地は100機もない。
そもそも、200人を超すパイロットが殉死するほどの事故を起こすには、まず1000機は零戦が全損する必要がある。機体が全損してもパイロットは無事、あるいは軽傷で済むケースは多い。逆にパイロットが死亡しながら、機体は無事、あるいは修理可能という例は少ない。零戦1000機全損して、殉職200、重傷200、軽傷400、無事が200といったあたりだろう。
あるいは、零戦は機体がとても丈夫であったかである。『吸血鬼の花束』みたいな話があったかということだ。零戦がエンジン・機体がとても丈夫で、パイロットは死ぬけど、機体は無事であった。そうでもなければ、生産数400でありながら、200人殉職する事故を起こしなお、緒戦で活躍した零戦の数、300機は確保できない。
実際のところは、昭和16年の航空要員殉職者が200あったという話である。桜林さんが根拠とした『零式艦上戦闘機』※ では、零戦の殉職者だけに限定した話をしていない。大艇や陸攻、中攻といった大型実用機から、練習機まで含んだすべての数字として記述している。「パイロットが事故で殉職している」と明記しているが、実際にはクルーも含んだ数字だろう。記事趣旨であるオスプレイ開発での殉職者に相当するといったような、零戦開発に関する殉職者ではない。
桜林さんがカン違いした裏には、国家へ犠牲を賞賛し、強調することが大好きな思想的背景がある。桜林さんは、零戦についての章立での結論として「多くのパイロットがその命に代えて1つの航空機を作り上げていくという真理」があると主張している。零戦のような象徴的存在には、相応の供犠がふさわしいと考えているのだろう。
記事そのものの対象であるオスプレイにしても、たかが輸送機に過大な思い入れをしている。輸送機としては画期的かもしれないが、基本的には50人載せられるかどうかの輸送機に過ぎない。しかも、平時における開発である。その人的損失について、既に日華事変で戦時体制にあり、対米戦を決意した昭和16年の例を牽いて許容範囲とするのは妥当ではない。
※ 清水政彦『零式艦上戦闘機』(新潮社,2008.8)p.55
しかし、開戦時に200人殉職できるまで零戦は生産していない。ウィキペディア零戦の項目にはを見ると生産数がある。昭和16年開戦まで生産できた零戦は合計430機程度に過ぎない。そして、緒戦に投入された零戦は空母主力6隻分で120機程度、南方作戦に投入された基地航空隊は、台南空ほか3個隊で最大200機程度。墜落・全損する余地は100機もない。
そもそも、200人を超すパイロットが殉死するほどの事故を起こすには、まず1000機は零戦が全損する必要がある。機体が全損してもパイロットは無事、あるいは軽傷で済むケースは多い。逆にパイロットが死亡しながら、機体は無事、あるいは修理可能という例は少ない。零戦1000機全損して、殉職200、重傷200、軽傷400、無事が200といったあたりだろう。
あるいは、零戦は機体がとても丈夫であったかである。『吸血鬼の花束』みたいな話があったかということだ。零戦がエンジン・機体がとても丈夫で、パイロットは死ぬけど、機体は無事であった。そうでもなければ、生産数400でありながら、200人殉職する事故を起こしなお、緒戦で活躍した零戦の数、300機は確保できない。
実際のところは、昭和16年の航空要員殉職者が200あったという話である。桜林さんが根拠とした『零式艦上戦闘機』※ では、零戦の殉職者だけに限定した話をしていない。大艇や陸攻、中攻といった大型実用機から、練習機まで含んだすべての数字として記述している。「パイロットが事故で殉職している」と明記しているが、実際にはクルーも含んだ数字だろう。記事趣旨であるオスプレイ開発での殉職者に相当するといったような、零戦開発に関する殉職者ではない。
桜林さんがカン違いした裏には、国家へ犠牲を賞賛し、強調することが大好きな思想的背景がある。桜林さんは、零戦についての章立での結論として「多くのパイロットがその命に代えて1つの航空機を作り上げていくという真理」があると主張している。零戦のような象徴的存在には、相応の供犠がふさわしいと考えているのだろう。
記事そのものの対象であるオスプレイにしても、たかが輸送機に過大な思い入れをしている。輸送機としては画期的かもしれないが、基本的には50人載せられるかどうかの輸送機に過ぎない。しかも、平時における開発である。その人的損失について、既に日華事変で戦時体制にあり、対米戦を決意した昭和16年の例を牽いて許容範囲とするのは妥当ではない。
※ 清水政彦『零式艦上戦闘機』(新潮社,2008.8)p.55
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