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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

隅田金属ぼるじひ社(コミケ:情報評論系/ミリタリ関係)の紹介用

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文谷数重

Author:文谷数重
 軍事ライターの文谷です
 コミケでは隅田金属ででています。評論情報です。

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2013.03
24
CM:3
TB:0
13:00
Category : ナショナリズム
 尖閣諸島に資源があり国益という主張は、原野商法と同じではないか。

 争って尖閣諸島を日本のものにしても、現実的な利益はない。島にも、周辺の海底にも、海にも大した利益はない。陸地に利用価値はなく、海底資源も怪しく、漁業資源は既に話し合いが済んでいる。

 尖閣諸島の陸上部には利用価値がない。土地は狭隘で水も電気もない。人件費が安く、労働環境が劣悪でも我慢した時代に鰹節工場や缶詰工場を作っても、最終的に撤退した立地である。

 海底にあるといわれる原油や天然ガスも利益になりそうにない。原油も天然ガスも本当にあるか分からない。その上、商業化できる見込みも厳しい。

 尖閣諸島の原油・天然ガスも怪しい。石油資源開発取締役だった猪間明俊さんは、石油はないだろうと見ている。砂岩もないので石油は見込めず、あっても比較的小規模の天然ガスであると主張している。実際に発見することは困難であり、試掘や輸送の観点から商業化は難しいとも言っている。※

 唯一獲れる魚については、すでに日中で話し合いが済んでいる。双方の漁民がアクセスできるようになっている。漁業について尖閣諸島支配で争っても意味は無い。

 日中漁業協定は、尖閣諸島周辺での両国漁民の操業を認めている。領有権ついては、それぞれに都合よく解釈できるように意図的に避けて、両方の漁民がアクセスできるようにしてある。質問主意書に対する答弁書を読むと、現実的にはどうでもいい島で衝突しないように、上手く避けていることが分かる。※※

 尖閣諸島には、争う実利はない。陸上部分、周辺海底には資源や利益はない。漁業資源はあるが、すでに日中で話し合いが済んでいる。実利として争うほどのものはない。

 海底資源云々の取り合いについては、原野商法に騙されたようなものだ。まだ発見されてもいないし、見つかっても儲かる見込みもない。しかし、儲かるのではないかという色気で引き釣りこまれてしまっている。

 尖閣の問題は、結局は地図の上で何色に塗るかの問題である。これも、日本も中国も勝手に自国の色に塗れば済む。双方ともそれで満足する。逆に、相手の地図の色に文句をつけてもどうなるものでもない。

 現実の利益がないことは、両国政府は承知している。しかし、すでにナショナリズムは吹き上がっている。領土は神聖である。また、領土を喪った政府は倒れることになる。そのため、日中は海上警察力を尖閣諸島に捧げるポトラッチを続けざるを得ない。仕方がないが馬鹿馬鹿しい話である。



※ 猪間明俊「資源開発の立場から見た尖閣諸島問題」『世界 別冊816』(岩波書店 2011.4)pp.36-44
猪間さんの主張は興味深い。周辺海域には地質的に堆積物がたまるので、化石燃料が生まれる場所である。しかし、地層的に砂岩ではないので石油はない。あってもガス田であり、その埋蔵資源量はサハリン2よりも1桁以上は小さい。そのガスを経済的に運び出す方法がない。中国は、大陸側にある条件のよい場所で試掘しているが、ガスを発見できるのが4割であり、人件費が安い中国でも商業化できるのは1割であるというものだ。

※※ 質問主意書と答弁書は次のとおりである。
「一九九七年のいわゆる日中漁業協定における尖閣諸島の取り扱い等に関する質問主意書」http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a181009.htm
「衆議院議員浅野貴博君提出一九九七年のいわゆる日中漁業協定における尖閣諸島の取り扱い等に関する質問に対する答弁書」http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b181009.htm

   また「【佐藤優の眼光紙背】1997年11月11日付の小渕書簡があるため日本政府は尖閣諸島周辺の中国漁船を取り締まることができない」http://blogos.com/article/46928/では、条約に附属する文書として「漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定第6条(b)の水域に関する書簡」があることを紹介し、全文を提示している。
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2013.03
24
CM:0
TB:0
08:13
Category : 未分類
 横須賀教育隊は仕事でよく行ったが、大抵私有車で移動していた。教育隊は横須賀の総監部にぶら下がっているので、仕事と連絡と、怒られ要員でよく行った。仕事は教育隊と音楽隊の面倒を見ること。連絡は当時の施設庁監督官との打ち合わせ。怒られ要員は、土地が余っているので勝手に置かれた陸海空工事の、まあ産廃保管をどうにか引き伸ばすための、司令への土下座要員ね。仕事以下を書きだすと長くなるので、ここには書かないけどね。

 私有車移動なのは、官用車が1台しかないから。部課で持っていた官用車は1台だけだった。できれば米軍入構用にとっておきたい。なんせ官用車であれば、載っている人を含めてノーチェックで入れる。MTのコラムシフトだったので、運転できる海曹士・事務官技官も時期によるが3-4名しかいなかった。己も含めて幹部と幹部相当事務官が、略全員運転できるのは皮肉だった。実際、横須賀、船越、米軍に入るときは、ほとんど幹部が運転して行った。

 また、横須賀教育隊は特に官用車を避けたい理由があった。陸を含めて新兵さんが多いので、官用車だと間違いなく敬礼される。それに一々答礼するのが面倒なわけだ。しかも運転手が幹部だと、最先任者でペコペコ頭を下げるしかない。対して私有車なら、帽子を外しておけば、まず気づかれない。面倒な敬礼も答礼もしないので済むのが利点だった。

 自前で車とガソリンを使う点についても、実は大した問題もなかった。余徳があったので、充分にカバーできた。

 10年以上前の話なので口にするのだが、高速のチケットで充分に元がとれた。会計法規の時効は5年だからね。横須賀教育隊は三浦半島の反対側、武山にある。横須賀の総監部から山を超えて行かなければならない。まずは時間がかかって仕方がない。だから、中山有料道路と横横を使うことになっていた。その時には官用車も私有車もチケットを貰えた。でもねえ、実際には下道を走るわけだ。そのチケットを私用利用した。

 チケット代は、片道150+200円だったかな、その往復分。週末に自宅に帰るときになんかに使っていた。まずバレない。バレるとすれば強欲はって、下道で事故でも起こしたのに、その時にチケットを返納しないような場合かね。まあ余徳だと思っていたよ。換金していたわけでもないしね。横須賀時代の最後にはチケットが使いにくくなったので、今は無理だろう。

 下道を走る余裕もあった。何にせよ、当時の仕事は昼間、特に午前中には比較的余裕があった。幹部の仕事は課業やめ以降も続く。ほぼ例外なく残業で、帰るのは早くて夜の8時過ぎ(スーパーの営業時間に間に合う)、普通は10時、厳しい時期だと1-2時だった。己が横須賀教育隊に行くのは午前が多く、課業はじめ直後は向こうも忙しいので、下道を走るのは時間調整で調度良かった。ちなみに車輌運行票は市内なので公用車でも書かないので、その点での差はない。

 こういうこともあって、横須賀教育隊方面に行く時には、まず己と私有車だった。もともと武山の仕事は、略、己だけということもあったが、私有車があるのでついでに行ってくれという仕事も多かった。佐島と長井の漁協とかね。

 人事異動の際には、相模湾側への漁協には挨拶に行った。武山側、横須賀教育隊の海面使用は微々たるもの、漁業権滅失が桟橋の投影面積の20平米程度の小便みたいな面積だったが、挨拶は結構やっていた。この時は、上司に干物を買わせるのが常だった。理由は「美味しいから」だけどね。確か、南極の氷も持っていったような気もする。これも横須賀東部漁協と話すときの準備。何かの時に「海軍は武山でも毎回挨拶に来るよ」とでも言ってもらえれば、まあ多少の信用にもなるだろうということだ。

 選んで私有車を使うことは他にもあった。土地の買収や埋め立てほか、自衛隊が動いていることがバレると塩梅が悪い時には、部長級(1佐)を乗せて私有車で行った。部長級は背広。己は現場代理人あたりをイメージした作業服っぽい服装。関東自動車の土地買収の時には、その関東自動車や市役所、登記所、財務局事務所にはそういう態勢で、しかも多少遠回りして逆方向から到着した。周辺対策もそう。護衛艦の騒音が思わぬ遠距離に届いていた時には、大事になる前に事実確認と処理ということで、夜に同じような服装で行った。

 1佐2佐でも自転車乗って行ったり、偽装半分・私用半分で籠にスーパーで買った大根や葱を乗せたりね。自転車でも己は別道で移動して、別の入り口から入るのだけれども、総監部に戻ったときにはかご見て笑ったよ。定年寸前の2佐上司は「わし一人でいくけん」と単身徒歩で出て行ったこともあった。これも半ばはギャグで、雨の中、嬉々として背広に傘とゴム長、合切袋に議事録とCAD図面と記憶媒体(USBメモリの最初の時期)持っていた。どう見ても、田舎から息子に会いに上京した親爺だった。ただねえ、昭和40年代の雰囲気だけどね。