Category : 映画
岩波ホールで『楽園からの旅人』が上映されている。廃止された教会に、アフリカからの不法入国者が逃げこんでくる。教会の司祭は彼らを保護するという筋立てである。
テーマと舞台には文句のつけようが無い。だからか、近藤孝さんの映画評でもベタ褒めされている。
しかし、作劇が全く残念に過ぎた。なんといっても、登場人物が全く交歓しない。映画でも小説でもアニメでも、大抵は物語の中で人間関係が深化し、あるいは変化する。だが、『楽園からの旅人』にはそれがない。多少でもあるのは、司祭と寺男(あるいは信徒代表)の仲が悪くなること、医者が司祭を理解して、言うことを黙って聞くようになる程度位である。肝心の難民と司祭は全く交わらない。
そして、司祭と難民が交歓しない以上、難民にも感情移入ができない。一応、腹の大きなおっ母さんが子供を産んだり、別の家族でお父つぁんが病気から恢復したりする。だが、その先で司祭は子供と母親や、家族に「良かったね」と言う程度の交流もしない。観客は「まあイイことだよね」程度で終わってしまう。同情や難民への仲間意識が生まれない。
だから、物語上、難民はそこにあるだけのオブジェにとどまってしまった。もともと難民の描写はおざなりで済まされている。しかし、十把一絡げのグループではなく、3グループ程度に分かれいるので余計に訳がわからない。突然、ダイナマイト(C4とかじゃない筒状の爆薬)が出てくるカットがあったり、それをアンちゃんが腹に巻くカットがあるが、何を憎んでいるのか全然わからない。予告編やストーリを読んで、初めて原理主義者グループも混じっていることが分かる始末である。
このため、クライマックスで難民が受ける扱いにも、観客は悲嘆できない。最後に、難民が○○されたことへの示唆があるがだが、その時にも「ヒドい」とか「やめて」といった感情が湧かない。
映画としても退屈になってしまう。8月21日夜の回に行ったのだが、始まってから10分も経つと近くのおっちゃんがイキナリ寝はじめていた。イビキも最後までしていたような映画になってしまった。
退屈な点は、映画評でも窺える。近藤さんの「不法入国者たちの顔の何と美しいことか。虐げられてきた彼らの顔に、恩ちょうのような光を当てたオルミの祈りの深さに、感銘を受けずにはいられまい。」とある。言外に「面白い映画だと思うなよ」というメッセージがあるようにも見える。
この映画、普通に、司祭と難民を交歓させればよかったのではないのか。司祭に「慈悲を与えることが困難である時こそ慈悲を与えるべき」と言わせたのは立派だけど、その上で援助と交歓をさせれば、結構いい映画になったのではないか。
教会を失って、抑鬱状態になった司祭をハッスルさせてもよかったのではないか。死に損ないの年齢の司祭が、徐々に修道院時代の兄弟子に戻る。「ここに居させてやるから、できることやれ、働け」とかね。「洗いざらしがやるからオムツ位縫え」とか、「若いのに昼間から寝てんじゃない」とか「掃除しろ掃除」とかでもいい。子供にアラビア語の読み書き教えてやれ、必要なイタリア語は俺が教えてやるみたいな話にすれば、相当に変わったのではないのかね。
エルマンノ・オルミ監督、現代の黙示録を書こうとして、黙示録を書いたというなら、どうしょうもない話だけれども。やりたいことと、うけることを両立させることも、巨匠であるならできたのではないか。
テーマと舞台には文句のつけようが無い。だからか、近藤孝さんの映画評でもベタ褒めされている。
しかし、作劇が全く残念に過ぎた。なんといっても、登場人物が全く交歓しない。映画でも小説でもアニメでも、大抵は物語の中で人間関係が深化し、あるいは変化する。だが、『楽園からの旅人』にはそれがない。多少でもあるのは、司祭と寺男(あるいは信徒代表)の仲が悪くなること、医者が司祭を理解して、言うことを黙って聞くようになる程度位である。肝心の難民と司祭は全く交わらない。
そして、司祭と難民が交歓しない以上、難民にも感情移入ができない。一応、腹の大きなおっ母さんが子供を産んだり、別の家族でお父つぁんが病気から恢復したりする。だが、その先で司祭は子供と母親や、家族に「良かったね」と言う程度の交流もしない。観客は「まあイイことだよね」程度で終わってしまう。同情や難民への仲間意識が生まれない。
だから、物語上、難民はそこにあるだけのオブジェにとどまってしまった。もともと難民の描写はおざなりで済まされている。しかし、十把一絡げのグループではなく、3グループ程度に分かれいるので余計に訳がわからない。突然、ダイナマイト(C4とかじゃない筒状の爆薬)が出てくるカットがあったり、それをアンちゃんが腹に巻くカットがあるが、何を憎んでいるのか全然わからない。予告編やストーリを読んで、初めて原理主義者グループも混じっていることが分かる始末である。
このため、クライマックスで難民が受ける扱いにも、観客は悲嘆できない。最後に、難民が○○されたことへの示唆があるがだが、その時にも「ヒドい」とか「やめて」といった感情が湧かない。
映画としても退屈になってしまう。8月21日夜の回に行ったのだが、始まってから10分も経つと近くのおっちゃんがイキナリ寝はじめていた。イビキも最後までしていたような映画になってしまった。
退屈な点は、映画評でも窺える。近藤さんの「不法入国者たちの顔の何と美しいことか。虐げられてきた彼らの顔に、恩ちょうのような光を当てたオルミの祈りの深さに、感銘を受けずにはいられまい。」とある。言外に「面白い映画だと思うなよ」というメッセージがあるようにも見える。
この映画、普通に、司祭と難民を交歓させればよかったのではないのか。司祭に「慈悲を与えることが困難である時こそ慈悲を与えるべき」と言わせたのは立派だけど、その上で援助と交歓をさせれば、結構いい映画になったのではないか。
教会を失って、抑鬱状態になった司祭をハッスルさせてもよかったのではないか。死に損ないの年齢の司祭が、徐々に修道院時代の兄弟子に戻る。「ここに居させてやるから、できることやれ、働け」とかね。「洗いざらしがやるからオムツ位縫え」とか、「若いのに昼間から寝てんじゃない」とか「掃除しろ掃除」とかでもいい。子供にアラビア語の読み書き教えてやれ、必要なイタリア語は俺が教えてやるみたいな話にすれば、相当に変わったのではないのかね。
エルマンノ・オルミ監督、現代の黙示録を書こうとして、黙示録を書いたというなら、どうしょうもない話だけれども。やりたいことと、うけることを両立させることも、巨匠であるならできたのではないか。
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