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「漂流漁民が薩摩から江戸まで3日で着いてしまうよ」という話がある。確か、荻生徂徠の『政談』だか『問答書』だったかと思う。「罪人を八丈島に流すとか言ってるけど、あそこはそんなに遠くもない」といった話のついでだから、たぶんそう。
太平洋岸には黒潮が流れており、そこそこは早い。黒潮はだいたい2-3ktで、1日で75マイル近く、150kmは流される。薩摩沖-江戸沖は約600km、3夜4日あれば、流されてつかないこともない。風やその他の影響もあれば、3日で着いてしまうこともあるだろう。
気になるのは、帰り道である。江戸期には、浦賀と走水に幕府の海上での出先機関があったが、そこから逆方向に、船で帰ることができたのだろうか?
太平洋岸を逆向きに行くのは難しい。江戸から薩摩までいくには、少なくとも紀州の御坊のあたりまで、外洋に面した太平洋岸をいかなければならない。世界的にみても風浪が強いところであり、なにかあるとまた黒潮に流されてしまう。
特に、石廊崎、御前崎、大王崎、潮岬を越えるのも、小型漁船にはかなりの難所になる。なかでも、御前先から大王崎の遠州灘は、避泊する港も、風よけできる地形もない。その先の熊野灘も、今でも自衛隊の水船等は、天気を見ながらでなければ移動しない難所である。江戸から石廊崎までの相州灘も、当時としては難所であることに間違いはない。
仮に漁船で帰るとした場合、3夜4日で流された後、2ヶ月程度はかかったのではないか。好天時の昼間だけしか航海はできないし、しかも風待ちもある。公表された水路誌や海図もなく、天気予報も無い時代には、そんなものだろう。
現実的には、陸路送還しかない。いつ着くかわからず、そもそも安全性に欠ける漁船による帰還はなかったのではないかと思う。
この辺りの国内遭難漁民について、簡単にググってみたものの、簡単な本はない。間違いなく、救難や送還制度はあったはずだし、紀要等でその手の記事も読んだ記憶があるのだが、今は直ぐに見つけられない。
対して、海外遭難漁民とその送還については、国際関係史や文化交流といった観点から、色々な本が出ている。一番面白いのは、メチエで出た池内敏さんの『薩摩藩士朝鮮漂流日記』(講談社,2009.8)か。武士階級が乗り込んだ帆船が朝鮮に着いて送還されるまでの話であるが、そこで朝鮮の士大夫階級と交渉・交流が述べられている。
太平洋岸には黒潮が流れており、そこそこは早い。黒潮はだいたい2-3ktで、1日で75マイル近く、150kmは流される。薩摩沖-江戸沖は約600km、3夜4日あれば、流されてつかないこともない。風やその他の影響もあれば、3日で着いてしまうこともあるだろう。
気になるのは、帰り道である。江戸期には、浦賀と走水に幕府の海上での出先機関があったが、そこから逆方向に、船で帰ることができたのだろうか?
太平洋岸を逆向きに行くのは難しい。江戸から薩摩までいくには、少なくとも紀州の御坊のあたりまで、外洋に面した太平洋岸をいかなければならない。世界的にみても風浪が強いところであり、なにかあるとまた黒潮に流されてしまう。
特に、石廊崎、御前崎、大王崎、潮岬を越えるのも、小型漁船にはかなりの難所になる。なかでも、御前先から大王崎の遠州灘は、避泊する港も、風よけできる地形もない。その先の熊野灘も、今でも自衛隊の水船等は、天気を見ながらでなければ移動しない難所である。江戸から石廊崎までの相州灘も、当時としては難所であることに間違いはない。
仮に漁船で帰るとした場合、3夜4日で流された後、2ヶ月程度はかかったのではないか。好天時の昼間だけしか航海はできないし、しかも風待ちもある。公表された水路誌や海図もなく、天気予報も無い時代には、そんなものだろう。
現実的には、陸路送還しかない。いつ着くかわからず、そもそも安全性に欠ける漁船による帰還はなかったのではないかと思う。
この辺りの国内遭難漁民について、簡単にググってみたものの、簡単な本はない。間違いなく、救難や送還制度はあったはずだし、紀要等でその手の記事も読んだ記憶があるのだが、今は直ぐに見つけられない。
対して、海外遭難漁民とその送還については、国際関係史や文化交流といった観点から、色々な本が出ている。一番面白いのは、メチエで出た池内敏さんの『薩摩藩士朝鮮漂流日記』(講談社,2009.8)か。武士階級が乗り込んだ帆船が朝鮮に着いて送還されるまでの話であるが、そこで朝鮮の士大夫階級と交渉・交流が述べられている。
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