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宮嶋茂樹さんの精一杯の背伸びは、見ていて痛々しい。
先に書いたが、宮嶋さんは番長清原と同じである。顧客や媒体から与えられた役割であり「不肖・宮嶋」を演じなければならない。要は顧客であるネトウヨ層に媚びなければならない。
だが、主張に全く独自性がない。先行するネトウヨ層向けの言論をそのまま取り込んで、表現の強度を上げる以外のことができない。
ZAKZAKでの最新記事「川崎中1男子殺害の残虐さ『少年法』のあり方変えないと」は全くそれだ。
と、中身にはなんの新味もない、
これは手垢のついた『正論』『WILL』的な言動でしかない。顧客層であるネトウヨや、宗教的右派が持つ憲法や人権への否定的感覚、要はネトウヨ層の、想像されたサヨクへの反発に乗っかっただけで、主張部分にはどこにも宮嶋さんのオリジナリティはない。独自性を示せないのでしかたがないので、正書法ではなく関西弁音写として主張の強度を増やしているだけである。
も、自身に跳ね返る主張である。宮嶋さん自身も、結局はネトウヨ層向けの右派言論として「ありきたりのことしかコケん」(宮嶋)状態であり、「青少年の健全化、愛国心、道徳の向上に屁の突っ張りにもならん」(宮嶋)主張しかできていない。
宮嶋さんにできるのは、自分が如何に右派であるかの主張でしかない。
これは、独自性のある主張ができないためだろう。
元来、写真家であるので仕方がないことだ。それなのに商業的に『正論』『WILL』的路線に近づき、求められるままに過激な発言をし、「不肖・宮嶋」といったキャラ付けをされた。あとは顧客の求めるままに、写真家の能力を越えて、「不肖・宮嶋」背伸びをして反サヨク的発言をしているだけである。
この点、宮嶋さんは番長清原と同じなのである。メディア露出の快楽にハマり、スポーツ紙が作った愚連隊の番長キャラを演じるうちに、愚連隊の真似をして、内面も取り込まれて零落した番長清原と変わるものではない。
見ていて気の毒なものでもある。既に写真家としても自分の好きなモノを撮ることもできない。男女自衛隊員の写真集にしても、宣伝材料的なお行儀の良い写真でしかない。自衛隊の見せたいような、古い行儀の良い兵隊像を撮影する機械でしかない。
仕事でスゴイが、仕事以外でもスゴイのが人間である。エリート海曹がエロビデオを見るしかない居住区や、課業外でパチンコに励み借財を重ねる落差を宮嶋さんは知りながらも、その撮影を自ら禁じている。これは不自由な言論の極みである。宮嶋さん自身が、自分で自分を型に嵌めた結果であるが、気の毒なものであることだ。
※ 宮嶋茂樹「川崎中1男子殺害の残虐さ『少年法』のあり方変えないと」『ZAKZAK』(産経新聞,2015.3.5)http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150305/dms1503051140007-n1.htm
先に書いたが、宮嶋さんは番長清原と同じである。顧客や媒体から与えられた役割であり「不肖・宮嶋」を演じなければならない。要は顧客であるネトウヨ層に媚びなければならない。
だが、主張に全く独自性がない。先行するネトウヨ層向けの言論をそのまま取り込んで、表現の強度を上げる以外のことができない。
ZAKZAKでの最新記事「川崎中1男子殺害の残虐さ『少年法』のあり方変えないと」は全くそれだ。
被害者は中学1年生、犯人もそろって未成年。そんな「検証」したら、更生を前提とした少年法の精神に反するやて。少年法も日本国憲法と同様に、神聖にして犯すべからずやてか。(宮嶋)
と、中身にはなんの新味もない、
これは手垢のついた『正論』『WILL』的な言動でしかない。顧客層であるネトウヨや、宗教的右派が持つ憲法や人権への否定的感覚、要はネトウヨ層の、想像されたサヨクへの反発に乗っかっただけで、主張部分にはどこにも宮嶋さんのオリジナリティはない。独自性を示せないのでしかたがないので、正書法ではなく関西弁音写として主張の強度を増やしているだけである。
そんなもんは、ありきたりのことしかコケんワイドショーのコメンテイターや、青少年の健全化、愛国心、道徳の向上に屁の突っ張りにもならん教育評論家に言わせとったらエエ。(宮嶋)
も、自身に跳ね返る主張である。宮嶋さん自身も、結局はネトウヨ層向けの右派言論として「ありきたりのことしかコケん」(宮嶋)状態であり、「青少年の健全化、愛国心、道徳の向上に屁の突っ張りにもならん」(宮嶋)主張しかできていない。
宮嶋さんにできるのは、自分が如何に右派であるかの主張でしかない。
これは、独自性のある主張ができないためだろう。
元来、写真家であるので仕方がないことだ。それなのに商業的に『正論』『WILL』的路線に近づき、求められるままに過激な発言をし、「不肖・宮嶋」といったキャラ付けをされた。あとは顧客の求めるままに、写真家の能力を越えて、「不肖・宮嶋」背伸びをして反サヨク的発言をしているだけである。
この点、宮嶋さんは番長清原と同じなのである。メディア露出の快楽にハマり、スポーツ紙が作った愚連隊の番長キャラを演じるうちに、愚連隊の真似をして、内面も取り込まれて零落した番長清原と変わるものではない。
見ていて気の毒なものでもある。既に写真家としても自分の好きなモノを撮ることもできない。男女自衛隊員の写真集にしても、宣伝材料的なお行儀の良い写真でしかない。自衛隊の見せたいような、古い行儀の良い兵隊像を撮影する機械でしかない。
仕事でスゴイが、仕事以外でもスゴイのが人間である。エリート海曹がエロビデオを見るしかない居住区や、課業外でパチンコに励み借財を重ねる落差を宮嶋さんは知りながらも、その撮影を自ら禁じている。これは不自由な言論の極みである。宮嶋さん自身が、自分で自分を型に嵌めた結果であるが、気の毒なものであることだ。
※ 宮嶋茂樹「川崎中1男子殺害の残虐さ『少年法』のあり方変えないと」『ZAKZAK』(産経新聞,2015.3.5)http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150305/dms1503051140007-n1.htm
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