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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

隅田金属ぼるじひ社(コミケ:情報評論系/ミリタリ関係)の紹介用

プロフィール

文谷数重

Author:文谷数重
 零細サークルの隅田金属です。メカミリっぽいけど、メカミリではない、でもまあミリタリー風味といったところでしょうか。
 ちなみに、コミケでは「情報評論系」です

連絡先:q_montagne@pop02.odn.ne.jp

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2016.03
16
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12:49
Category : 未分類
■ お習字業界の権益
 書道教材は必要なのだろうか?

 この時期、ホームセンターで学校書道教材が売っている。だが、アレは切り取ったペットボトルの底に開明墨汁を注ぎ、筆を突っ込めば終わるものだ。何も割高な書道セットを買う必要はない。

 そもそも、書道教育ほどヘンなものはない。教えている教師にしても国語系統なのか、美術系統なのか、伝統芸能なのか、実用技術なのか自分たちで整理できていない。

 まず、国語教育としては相当おかしい。文字は道具にすぎず、読めればよい文字について過剰性能を要求するものであり、あってもなくてもよい「はね」や「はらい」を要求するものである。

 また書き順強制にも繋がる。もともと象形文字であったことからわかるように書き順に根拠はない。昭和三〇年代に教師向けに便宜的に定めたものであり、どうでもよいものであり、中身もおかしい。「分」は伝統的に「ノ」を書いてから「刀」、最後に「ヽ」を書いた。崩し方もそうである。だが、今は「八」に「刀」と変な順番が強制されている。

 美術としてはあまり客観性がない。書道は所詮「道」であり、美術分野としては奇妙なところがある。これは二科展で入賞を派閥ごとに順繰り持ち回りにしていることでもわかるだろう。

 伝統としては全く成立しない。異体字も変体仮名も排除した伝統に何か意味があるのだろうか? 「パソコンやシャーペンで手抜きをして書かないのが本来である」というのなら、紙に筆で書くのも手抜きである。本来なら竹簡に細筆で書き込み、あるいは金石を穿ちあるいは鋳込み、さらには牛の肩甲骨に彫り込むべきだろう。

 実用上の利点もない。実際に太い筆で文字を書くこともないためだ。普通は極太のマッキーと洋紙にしか書かない。実用生活では細筆しか使わない。年賀状、礼状、祝儀不祝儀、署名なら筆ペンでよい。あかしやの筆ペンなら、実際の筆とほぼ変わらない。

 結局は、書道教育はお習字業界の権益でしかない。もともと書道が教科化された理由もそれで、お習字業界のロビー活動の成果でしかない。

■ 本字も読めない自称「普通の日本人」
 そんな教科を残すなら、その分を漢字なり、古典なり、くずし字でも教えたほうがよい。

 その辺りに手を抜いたので、いい歳こいた大人が「明治期の文書が読めない」とか泣き言をいうのは情けないものだ。

 アレ保守が「歴史の欠片『公文書』を解読して本当の近現代史を知りたい」とか言い出してカネ集めを始めている。見世物の戦車軍艦戦闘機の集金と同じで、適当なことを言って他人の金を自分が使おうとするアレにしか見えないものだ。

 だが、その言い草はさらにみっともないものだ。
最近歴史に関する話題が多くなり、マスコミ、インターネットなどにおける解説論評を「なんだかおかしい」と思うようになりました。
「本当の史実、根拠ある証拠」とは何だろう。そこでたどり着いたのが「公文書」でした。
https://readyfor.jp/projects/kingendaishi

しかし見られるのは原典のみで、中でも明治・大正や昭和初期の文書は旧字体や歴史的仮名遣で書かれていて、ほとんど読めず意味不明なんです。
https://readyfor.jp/projects/kingendaishi


 日記でもない公文書が読めないのは、国語力が不足しているというだけの話である。公文書で一番読みにくいのは崩し方の規範が壊れ、公文書の体裁も確立しない明治10-20年代だが、それでも適当に書いた「写し」や「記書」も普通に読める。潰れた字も文章の流れで推測できるし、児島さんのくずし字字典と対照すれば確認もできる。

 明治30年代以降は、きちんと教育を受けた日本語話者、言い方を変えれば「普通の日本人」であれば、読めないということはない。頭の悪い自称「普通の日本人」はそうではないかもしれないけどね。

 所詮は旧字体や旧仮名遣いが読めない御仁が「解説論評を『なんだかおかしい』と思う」というのも、笑い草でしかないものだ。その疑問も「これは『正論』の記事に書いてあることと違う」といったものなのだろう。
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