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人種差別デモが腰砕けになった件でネトウヨ達(本人たち曰く「保守[自称]」)が「集会結社の自由を侵害された」と泣き言を言っている。要はサヨク嫌いが昂じて人種差別のデモを擁護しているものだ。
例えば「集会の自由が殺された日」のコメント欄がそれだ。

差別者が集まって差別発言をする差別デモが抗議で中止に追い込まれると「社会秩序が崩壊」するそうだ。
■ 「主張・示威ができる」だけに過ぎない
だが、デモの権利は「街頭で主張して示威を行える」といったものに過ぎない。これは歴史・伝統的な政治活動を追認するものである。デモ行動を完遂できる権利ではない。つまりは最後まで主張を完遂できない連中の面倒を見てくれるといったものではない。
それが政治的自由に含まれるのも、かつてそれが政治であったといった伝統的経緯によるものだ。普通選挙以前、政治は街頭で決するものであった。そこでは党派同士が互いの主張を掲げ、喧嘩・飲酒といった祭典的雰囲気もあって流血も含めて決するものであった。
つまり街頭活動は街頭政治であり、その場での反論や反対行動も含めて構成される。そして、その主張や賛同者数の優劣で成否が規定される。それが忘れられているのである。
では、なぜ今日の日本で普通にデモが完遂できるか?
それはデモが概ね穏健なものであるためだ。まずは世間が受け入れる主張であり、反論や反対行動を受けなかった結果にすぎない。
■ 差別デモは、主張と示威で負けただけ
今回の件でも、人種差別デモは街頭での力関係で敗北しただけのことだ。警察云々も、明らかに負けている側に「どうせ実施できないでしょ」と言っただけのことだ。
だが、低級ネトウヨはそれを理解できない。心情的に差別者と同じスタンスであり、差別者に対抗したサヨクを忌み嫌っている。そのため「デモはその完了までもが国に認められた権利」だと思い込んで文句をつけているということだ。
ちなみに、そこで道交法を持ち出すあたりも頭が悪い。「シットインは道交法違反だから排除・逮捕すべき」程度で勝てると思い込んでいる。だが、その程度の些末な法律の、しかも一般交通に著しい影響を及ぼさない一時的行為を「不法」と言って対抗できるか?」。また、警察がそのとおり排除・逮捕できるかどうかも考えられないのだろう。
道交法云々も法匪的な発想にすぎないのである。デモや抗議行為が該当する道交法77条1項については最高刑でも懲役三ヶ月以下、罰金5万円以下に過ぎないし、それ以前に警察は違反者に「必要な措置を命じる」ことが求められる。つまりはいきなり排除も逮捕もできない。
■ ケーブル・ストリートの戦いを否定
結局、ネトウヨ達の主張を裏返せば「国の保護により人種差別デモを最後まで完遂させろ」ともなる。また、「デモ反対派からデモを保護しろ」とも言えるだろう。
だが、それであればケーブル・ストリートの戦い(英文WIKI)をどう評価するのだろうか?
ケーブル・ストリートの戦は今回の状況と全く一致する。独伊ファシスト政党の出先組織、英国ファシスト党がロンドンで愛国運動を装った反ユダヤデモを行った。これを市民が街頭で粉砕し、英国にナチズムを斥けたというものだ。抵抗の主体については左派系の色が強いものの、今でも英国では政治勢力を問わず肯定され、記念されている。
ネトウヨの理屈であれば、英国ファシスト党のデモも国が完了まで保障するものというのだろう。ちなみに当時の英国右派・保守派もそのように言っていたが、今はそれを言い出す恥知らずはいない。
■ (オマケ)「親衛隊員へのヘイトスピーチ」とか言うのだろうな
そいや、辺野古のゲート前デモについて「米兵へのヘイト」と言い出しているマヌケがいるけど。たぶん、連中は大戦中にゲシュタポの前での反ナチス抗議を聞いても「親衛隊員へのヘイト」とか言い出しただろうよ。 まあ駐留米軍はゲシュタポみたいな非人道組織じゃないけど、自分が権力者にでもなった気持ちで抗議活動を否定するネトウヨのスタンスからすりゃ、当時でもそういうだろう。
例えば「集会の自由が殺された日」のコメント欄がそれだ。

言葉使い@tennteke デモ中止に怒ったり疑問を呈している人のほとんどは、在特会を支持しているのではなく、「自力救済が容認されるのか?!」という社会秩序の崩壊の危機感を感じているんだと、声を大にして言いたい。
http://togetter.com/li/984265#c2785198
差別者が集まって差別発言をする差別デモが抗議で中止に追い込まれると「社会秩序が崩壊」するそうだ。
■ 「主張・示威ができる」だけに過ぎない
だが、デモの権利は「街頭で主張して示威を行える」といったものに過ぎない。これは歴史・伝統的な政治活動を追認するものである。デモ行動を完遂できる権利ではない。つまりは最後まで主張を完遂できない連中の面倒を見てくれるといったものではない。
それが政治的自由に含まれるのも、かつてそれが政治であったといった伝統的経緯によるものだ。普通選挙以前、政治は街頭で決するものであった。そこでは党派同士が互いの主張を掲げ、喧嘩・飲酒といった祭典的雰囲気もあって流血も含めて決するものであった。
つまり街頭活動は街頭政治であり、その場での反論や反対行動も含めて構成される。そして、その主張や賛同者数の優劣で成否が規定される。それが忘れられているのである。
では、なぜ今日の日本で普通にデモが完遂できるか?
それはデモが概ね穏健なものであるためだ。まずは世間が受け入れる主張であり、反論や反対行動を受けなかった結果にすぎない。
■ 差別デモは、主張と示威で負けただけ
今回の件でも、人種差別デモは街頭での力関係で敗北しただけのことだ。警察云々も、明らかに負けている側に「どうせ実施できないでしょ」と言っただけのことだ。
だが、低級ネトウヨはそれを理解できない。心情的に差別者と同じスタンスであり、差別者に対抗したサヨクを忌み嫌っている。そのため「デモはその完了までもが国に認められた権利」だと思い込んで文句をつけているということだ。
ちなみに、そこで道交法を持ち出すあたりも頭が悪い。「シットインは道交法違反だから排除・逮捕すべき」程度で勝てると思い込んでいる。だが、その程度の些末な法律の、しかも一般交通に著しい影響を及ぼさない一時的行為を「不法」と言って対抗できるか?」。また、警察がそのとおり排除・逮捕できるかどうかも考えられないのだろう。
道交法云々も法匪的な発想にすぎないのである。デモや抗議行為が該当する道交法77条1項については最高刑でも懲役三ヶ月以下、罰金5万円以下に過ぎないし、それ以前に警察は違反者に「必要な措置を命じる」ことが求められる。つまりはいきなり排除も逮捕もできない。
■ ケーブル・ストリートの戦いを否定
結局、ネトウヨ達の主張を裏返せば「国の保護により人種差別デモを最後まで完遂させろ」ともなる。また、「デモ反対派からデモを保護しろ」とも言えるだろう。
だが、それであればケーブル・ストリートの戦い(英文WIKI)をどう評価するのだろうか?
ケーブル・ストリートの戦は今回の状況と全く一致する。独伊ファシスト政党の出先組織、英国ファシスト党がロンドンで愛国運動を装った反ユダヤデモを行った。これを市民が街頭で粉砕し、英国にナチズムを斥けたというものだ。抵抗の主体については左派系の色が強いものの、今でも英国では政治勢力を問わず肯定され、記念されている。
ネトウヨの理屈であれば、英国ファシスト党のデモも国が完了まで保障するものというのだろう。ちなみに当時の英国右派・保守派もそのように言っていたが、今はそれを言い出す恥知らずはいない。
■ (オマケ)「親衛隊員へのヘイトスピーチ」とか言うのだろうな
そいや、辺野古のゲート前デモについて「米兵へのヘイト」と言い出しているマヌケがいるけど。たぶん、連中は大戦中にゲシュタポの前での反ナチス抗議を聞いても「親衛隊員へのヘイト」とか言い出しただろうよ。 まあ駐留米軍はゲシュタポみたいな非人道組織じゃないけど、自分が権力者にでもなった気持ちで抗議活動を否定するネトウヨのスタンスからすりゃ、当時でもそういうだろう。
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