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Category : 未分類
「日本人の科学リテラシーが低い」とはパワーワードである。「科学リテラシーが低い」から「似非科学が人気を得てしまう」と結論付けるのはなかなかである。
■ 「科学リテラシー」とやらの中身はなにか
だが、その科学リテラシーとはなんだろうか?
「左巻健男によると」「似非科学が人気を得てしまう」そのような記述からすると残念な匂いしかしない。
表層的な「科学的にはアリエナイ」のアレだ。反反原発の「100ミリシーベルト以下は危険がない」やエセ科学批判である自然食品への反発のたぐいである。
言い方を変えれば「レントゲンに写ってないから病気じゃない」と言い出すヘボ医者の理解と同じ臭いしか見えない。「放射線測定器の検出限界だから被害はアリエナイ」とか、「有意な相関が見られないから因果関係を認めない」ようなものだ。
■ 自分たちの(通俗的)科学的常識なんだろうね
その評価尺度も案外に狭隘に見える。自分たちの興味の範囲内で知っている知識くらいなものだろう。エセ科学批判で威張っている連中の評価尺度はそのようなものだ。
だが、それは結構な間違いがある。エセ科学批判は自然科学や工学そのものでの理解としても結構主張として間違えている。広くといって社会との関係でも、人文科学や社会科学の方面からすれば噴飯な主張も多い。
前者は、まずは19世紀の「細菌が病気を起こす」を教条としたリテラシーに似ている。ヘボ医者レントゲンの例なら「細菌が見つからないから病気じゃない」だ。「細菌が病気を起こす」先生がウイルスの存在まで想いは至らないから「タバコモザイク病は細菌がないから伝染病ではない」と言い出す。ビタミンの概念は「細菌が病気を起こす」主義では受容できないから片端から否定する。
今の「日本人には科学リテラシーがない」先生に含有される、科学的な知識・常識はそのようなものだ。特に原子力、航空宇宙開発のような巨大科学のポジショントーク的な科学的知見に偏した知識ばかりである。だから「100ミリシーベルト居住域と病気の発生率の相関係数は0.49だから相関はない、だから詐病」といいだす残念になる。
■ 「下水処理場の処理水は飲める」「だから飲め」のアレ
後者は自然科学・工学だけを評価軸とする誤りである。
「下水処理場の処理水は飲める」は科学的事実だろう。だが「それを飲め」と言い出すのはアレだ。「宇宙飛行士は飲んでいるのにオマエは飲めないというのか」と言い出すのが、今の「日本人には科学リテラシーがない」だ。
「『食べて応援』を否定するのか」はそんなものだ。産地や食品次第の部分はあるが実際にはほとんど問題はない。だが、不安感を許さない。「食べないのは非科学的」といった非国民的非難はどうかしている。
その点で狂信にしかみえない。「科学リテラシー」とは科学真理教への帰依である。あるいは神信心の強さの表明競争である。そうとしか見えない。
おーひら @tohdakumiko
日本人の科学リテラシーが低い理由について、左巻健男が「学校の理科教育が、「大人になってからも科学を学びたい」という意欲の促進に失敗しているからだ」と言っているが、その通りと思う。「大人の社会科見学」に加えて、「大人の理科実験」も観光に組み込むなどエンタメ化できないかと思う。
https://twitter.com/tohdakumiko/status/1059636266541580289
おーひら @tohdakumiko
なるほど、似非科学が人気を得てしまうのは、それが「楽しくて分かりやすいから」ではないかなと思い至る。“ステキ”なコミュニティにも入れるし。
https://twitter.com/tohdakumiko/status/1059950205943058433
■ 「科学リテラシー」とやらの中身はなにか
だが、その科学リテラシーとはなんだろうか?
「左巻健男によると」「似非科学が人気を得てしまう」そのような記述からすると残念な匂いしかしない。
表層的な「科学的にはアリエナイ」のアレだ。反反原発の「100ミリシーベルト以下は危険がない」やエセ科学批判である自然食品への反発のたぐいである。
言い方を変えれば「レントゲンに写ってないから病気じゃない」と言い出すヘボ医者の理解と同じ臭いしか見えない。「放射線測定器の検出限界だから被害はアリエナイ」とか、「有意な相関が見られないから因果関係を認めない」ようなものだ。
■ 自分たちの(通俗的)科学的常識なんだろうね
その評価尺度も案外に狭隘に見える。自分たちの興味の範囲内で知っている知識くらいなものだろう。エセ科学批判で威張っている連中の評価尺度はそのようなものだ。
だが、それは結構な間違いがある。エセ科学批判は自然科学や工学そのものでの理解としても結構主張として間違えている。広くといって社会との関係でも、人文科学や社会科学の方面からすれば噴飯な主張も多い。
前者は、まずは19世紀の「細菌が病気を起こす」を教条としたリテラシーに似ている。ヘボ医者レントゲンの例なら「細菌が見つからないから病気じゃない」だ。「細菌が病気を起こす」先生がウイルスの存在まで想いは至らないから「タバコモザイク病は細菌がないから伝染病ではない」と言い出す。ビタミンの概念は「細菌が病気を起こす」主義では受容できないから片端から否定する。
今の「日本人には科学リテラシーがない」先生に含有される、科学的な知識・常識はそのようなものだ。特に原子力、航空宇宙開発のような巨大科学のポジショントーク的な科学的知見に偏した知識ばかりである。だから「100ミリシーベルト居住域と病気の発生率の相関係数は0.49だから相関はない、だから詐病」といいだす残念になる。
■ 「下水処理場の処理水は飲める」「だから飲め」のアレ
後者は自然科学・工学だけを評価軸とする誤りである。
「下水処理場の処理水は飲める」は科学的事実だろう。だが「それを飲め」と言い出すのはアレだ。「宇宙飛行士は飲んでいるのにオマエは飲めないというのか」と言い出すのが、今の「日本人には科学リテラシーがない」だ。
「『食べて応援』を否定するのか」はそんなものだ。産地や食品次第の部分はあるが実際にはほとんど問題はない。だが、不安感を許さない。「食べないのは非科学的」といった非国民的非難はどうかしている。
その点で狂信にしかみえない。「科学リテラシー」とは科学真理教への帰依である。あるいは神信心の強さの表明競争である。そうとしか見えない。
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