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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

隅田金属ぼるじひ社(コミケ:情報評論系/ミリタリ関係)の紹介用

プロフィール

文谷数重

Author:文谷数重
 零細サークルの隅田金属です。メカミリっぽいけど、メカミリではない、でもまあミリタリー風味といったところでしょうか。
 ちなみに、コミケでは「情報評論系」です

連絡先:q_montagne@pop02.odn.ne.jp

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2014.02
15
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08:31
Category : 未分類
 人力で雪をかくほど草臥れることもない。己の家の北側に60cm以上の吹き溜まりができた。その他のところも無慮50センチは積もっている。しかたがないので道路の入り口から母屋の玄関と己の家の玄関まで、ざっと10mを幅75センチほど雪かきして通路を作り、屋根から母屋軒下に落ちて高さ2mの四角錐状になった雪を、玄関前だけ幅1.5mを奥行き2m分書いたよ。アラアラ計算だが5立米、小さいマスターがなければやってられない土量(雪量)だ。

 まあ、昔も雪掻きはよくやった。マーク雪印というやつで、若い時分に飛行場除雪隊の直長を三冬やった。初任配置が八戸の施設班長だが、春-秋は学生に出されていたので、実際の仕事は除雪がほとんどだった。

 八戸には冬期に専任除雪隊が編成される。陸式にいう編制ではない編成だが、実務は全部、己がやった。最初の冬で除雪隊の1直長をやって、春-秋は3術校。2年目の冬には1直長だが、人繰がつかない時期には3直長を兼ねた。翌春から秋まで陸自施設学校で、3年目の冬は、概ね1・2・3直長を全部兼任(出るのは降雪時のみ)していた。正月休暇だけ別の人、機関幹部に准尉をつけて頼む形にしていた。

 除雪の思い出というと、陽気なものから陰気なものまである。陰気なのは他所で人が死んだ話であり、己が学生期間中に借金で逃げた海曹を探す話だが、まあ話して心地いいものではないのでそれは置いておく。陽気なのは、南方出身者が決まって雪を見て興奮する話か。他にもスキー訓練で帳尻合わせに人を殺して話とか、陸自除雪とかか。

 南方出身者は、雪を見ると興奮する。

 除雪隊には、他総監部から半年転属で応援が来る。たいていは佐世保から海士や成り立て3曹だが、たまに「予算担当は同配置3年まで」の縛りを解くために曹長さんクラスが来る。当時、施設班の先任は1曹(顔も名前も覚えている柴田1曹だった、10年以上前に定年だから、お名前出してもいいでしょ)だったが、八戸のことなんかわからないから、その下に入ってもらう。本人も「先任じゃなくてラクでいいです」と気楽なもの。

 最初の年だったと思う。沖縄から曹長さんと3曹か士長が2人来て、鹿屋からも3曹か士長が2人来て己の施設班と己の分隊に入った。南国から来たので寒い寒いと言いながら、どちらも任免権下から出たことがないので、面白いもんですとか飯が旨いと勤務していた。そりゃ、八戸・大湊はハラコ飯とか毛ガニ1杯とか出るから飯は旨い。で、元々の兵隊と混じって、己が死にそうになりながら書類仕事(MPA用格納庫の企画※)をしている近くで、面白おかしく暮らしていた。

 そして、本番の日が来る。パラパラではなく、積雪になったその日なのだが、曹長さん「生まれて初めて雪が降るのを見た」という(これは覚えている)。鹿屋組も「降るのは見るが、積もるのはほとんど見たことがない」といった風情だった。除雪隊は雪が降らないと暇で、もともとの業務を持っていない応援組ということもあって、ペナペナの作業着か、ヘタすると上はT-シャツ1枚の大人4人で雪合戦だの雪だるまだのを作っていた。

 除雪の本番は、翌日の朝P-3Cの一番機を出す前、降雪量と積雪量によるが、午前3時位から始める。己も初めての除雪なので、気になって気になって仕方がない。准尉(こちらも顔も名前も覚えている、佐々野准尉)も暇だからとは言いながら、最初なので来てくれた。そして整列するが、応援組4人が1人位しかいない。そこで先任に聞くと「風邪引いたみたいなので隊舎で寝かせた」という。准尉も「班長、どうせ雪の量も大してないから大丈夫です」とも言う。まあ、先任と准尉は3尉よりも偉いので、いうままに除雪したら、確かに急ぐことなく、余裕持って時間ピタリで終わった。

 その日の夕刻、本調子ではない曹長さんが「ゴメンネ」(多分、もっと申し訳ない言葉だけど)と、缶コーヒーとお菓子もって己のところに来た。まあ、キレイに終わったので問題無いです。あとの病人どうですかというと、まあ風邪ですからねという。次の立直日にも、人数分の缶コーヒーとお菓子を持ってきた。それからは、まあ節度を持って厚着して遊んでいた。作業用やスキー訓練用の防寒着は山ほどあるのだ。

 で、翌年、同じように他総監部から兵隊をとったのだが。確か、おとっつぁん2人と若いの2人だった。一人が呉であとは佐世保。その4人も同じように最初の雪ではしゃいで風邪引いて入室か隊舎静養していた。これは翌々年も同じ。

 基本、軍隊で営内生活していると、たいていは子供になる。しかも雪見たことないし、家族も離れているので直ぐに小学生に退行する。そのくせ体力はあるからメチャクチャをするものだよ。しかも応援組が同期とかになると、基地内で飲み過ぎて雪の中で大の字に寝て遭難とか、三菱ジープをバックに走らせるとスピードメータが回るか実験して軽くぶつけるとか、燻製作って身内限りのボヤ騒ぎとかいろいろやられたよ。全部揉み消したけど、まあ悪い思い出じゃなかった。

 まずは、牧歌的な時代の牧歌的な配置だった。

 ちなみに着任して一番最初の仕事は、管理班の先任、曹長に命ぜられて鮭とば製造とイカワタだけの塩辛作りだったのを覚えている。朝一番で湊のモノホンの市場から大量に鮭とイカを買ってくるが、八戸の人間は奢っていて、鮭はイクラとハラスしか食わない。残りは鮭とばにして飛行機便で鹿屋や沖縄に送ると、お返しに芋焼酎や泡盛が届く寸法。イカも身よりもワタ狙いで、ワタだけ塩漬けにして食うという贅沢だった。たしか、曹長は受電所の冷却池でウナギ養殖もしていたよ。お金で汚いことはないけど、まあお名前は伏せとくかね。なんにせよもう20年近く前の話だ。

 ……アレだ、スキーで人殺しして帳尻合わせた話と、陸自の除雪は、次に気が向いた時にでも



※ 後のP-1用の格納庫で、施設庁に出向しているときにも担当してできる寸前までやった。管理班長(1課程の1尉)と施設班長(己、2課程の3尉)が管理班の准尉(伊藤准尉)に命ぜられて、土地に入るかを測ってきたのだが、最初に道路距離計測用のコロコロで測ったら、二人して「不精しちゃだめでしょ」と准尉に怒られた。なんにしても准尉はエライ。昔の軍隊の階級で言うと兵曹長で、正味は少佐くらいにエライので、若い幹部はいうことを聞くしかない。
 確か、次には光波使って、トラバース閉合までやった。でもその成果品も「2人とも文系でしょ」と伊藤准尉は信用しない。確かに信用されても困る部分もあるのも仕方がない。伊藤准尉が測量士の資格がある既述の佐々野准尉に頼んで検討してもらった。
 佐々野准尉は「大学出なんだから信用しようよ」といいながら、初の光波(買ったばっか)なので、面白がって数字を全部、関数電卓と手計算でやって確認していた。
 それを見ていた文書交換か何かで来た、車両班の別の伊藤准尉がエクセルで出来るんじゃないのと無責任に言ったら「機械の結果は正しいけど、まだなんか納得出来ないんだよね」と言っていたのを覚えている。20年前はそんな時代だった。
 そいや、この新しく作る格納庫の図面に仙台防衛施設局でチェック入れていた、定年前の建設監(お名前は大浦技官)は、CADのはいったノートパソコンを下敷き代わりにして鉛筆で修正していた。まあ戯画的だったよ。まあ、手で書けるほうが偉く見えるかと、ホントは己がCADで引いた図面を、私物イラレで鉛筆風ドローイングにして成果物だと渡したら、「自衛官は手で線を引けるのに、なんで技官ができないんだ、CAD使っているとスケール感がなくなるから施設庁は滅びる」といい、後には局長まで持って行って勝手に談判してきたらしい。ちなみに、この人は本省でかの三島の演説を聞いた人だが「何言っているのか全然わからなかった」といってた。
 そういうのは、嫌いじゃないが、いまではないだろうね。昔話は尽きないが、いい時代だった。
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CAD否定の手書き派とか、昔ながらの町工場みたいですね。